文/中国武漢市の大法弟子 諾言
【明慧日本2013年4月22日】私はかつて、腰椎損傷、リウマチ性関節炎、子宮筋腫など多くの病気を患っていました。多くの薬を飲んでいたため、胃までも痛くなって、苦しめられました。そのせいで、私は気が短くなり、毎日イライラして、いつも娘や夫に当たり、家庭の雰囲気もとても緊張した状態になってしまいました。
1995年3月中旬のある日、私は同僚の家で法輪大法の師父の説法を聞きました。それから、私は法輪功の「煉功場」を探し回り、5月1日、やっと琴台公園で見つけました。その日、私と夫は琴台公園に行き、夫が遠く離れた所に法輪功を紹介した看板を見つけました。私たちがその場所へ行くと、すでに多くの人がその看板を見ており、もっと多くの人が座禅を組んで煉功していました。そのすぐ傍に、人々に煉功の動作を教えている修煉者もいました。私たちがそれを見ていた時、ある修煉者が私たちの傍に来て、親切に法輪大法を紹介してくれました。私は「法輪大法を学びたいです」と言うと、その修煉者は私の家の住所を聞き、家に一番近い煉功場を教えてくれました。
翌日、私は教えてもらったキョウ口文化センターの煉功場に行きました。中に入るとすぐに抑揚のある煉功音楽が耳に入ってきました。素早く、修煉者が私の前にやって来て、熱心に忍耐強く煉功の動作を教え始めました。その時から、私は法輪大法から離れることができなくなりました。『轉法輪』を読んで私は思想の境地が完全に変わり、生きる真の意味が分かるようになりました。大法を得た当時、私は言葉では表現できないほど、本当にとても嬉しく、また感激も一入でした。
当時、私は毎日早朝と夜、集団煉功と学法に参加しました。この大法の修煉方式が良く、より多くの縁のある人が大法の修煉の道に入りました。修煉者が多くなって、私たちの煉功場が一つから三つになりました。
私はある日、法輪大法を広める活動に参加しました。古田路から黄浦路まで、道路沿いに法輪大法修煉者が煉功を行いました。法輪大法は武漢市の町の隅々にまで伝わりました。
私の住んでいる「軍事学院宿舎」に、法輪大法を修煉する人数が急激に増えたため、新たに煉功場を設けました。新しい煉功場の修煉者の大多数は教師、医師、教授でした。私たち修煉者は、昼は学院の庭で煉功し、夜は学院の大ホールで師父の説法ビデオを見ました。時々、小さい会議室で修煉体験の交流もしました。
私と同じ煉功場の年配の教授はかつて、直腸ガンを患い、病気を治したいと思い多くの気功を学びましたが、効果がありませんでした。しかし、教授は法輪大法を学び、癌が完全に消えました。その後、教授は例年の健康診断で、若い人よりも良い検査結果が出ました。医師はみな教授の病気を知っており、その検査結果に驚きました。教授は「法輪大法を修煉して、癌が治りました」と、とても誇らしそうにみんなに話しました。
ある日、雨が降って、私たちはみな大ホールで煉功しました。しかし、教授の姿を見かけませんでした。一緒に煉功していた私たちは「雨が降っているから教授は来られなかったのでしょうね」と話しました。私たちが煉功を終え、ホールから出た時、自転車に乗ってやって来た教授に会いました。私たちは教授に「雨だから煉功に来られなかったのですか」と聞くと、教授は微笑みながら、「私は外で煉功しました。先ほど煉功を終えたばかりです」と言いました。私たちは「外は雨が降っていたのに、どうやって煉功したのですか」と聞くと、教授は「雨は降らなかったですよ」と答えましたが、突然、私たちの話が理解できたようで、「見てください、私の服は濡れていませんよ。煉功で使ったテープレコーダーも濡れていません」と驚喜の声を上げました。私たちも本当に不思議な出来事だと驚きました。
煉功場に同済医学院の教授がいました。その教授は法輪大法を修煉する前、長い間、いつもめまいがあり、ほかの症状も伴って、毎日10時ごろ起床し、出勤できず、自宅で論文を書くことしかできませんでした。しかし、法輪大法を学んで間もなく、自転車で出勤できるようになりました。
ある修煉者は歌手だったのですが、声帯にポリープができ、手術後、かすれ声になってしまいました。当時、彼女は学法の時、自分では読まず、人が読むのを聴くだけでした。ある日、ある修煉者が彼女に「読んでみてください」と言い、彼女はしわがれ声で読みました。しかし、翌々日になって、彼女は大きい声が出るようになりました。その場の修煉者たちはみなとても喜びました。さらに、彼女は感動して病院に駆けつけ、医師に伝えました。「先生、声が出ました! 私はまた歌えるようになりました! 法輪大法のおかげです!」