小動物に執着する同修は早く目覚めよう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年8月27日】法を正す時期の修煉はすでに終わりに近づき、法を正す勢いはますます表面空間に迫って来ました。大法弟子の修め終えた一面は絶えず隔離され、残されたよくない心もどんどん取り除かれて行きます。今は、根本的な執着心を取り除くべき時期になっています。しかし、私が住む地域では、長期にわたって小動物を飼育し、情を注ぐ同修がいることに私は気づいています。

 同修Aさんは夫と離婚した後、国内で一人暮らしをしています。娘さんは海外で生活しており、Aさんは一匹の犬を飼っています。まるで家族のように犬を扱っており、もう数年経ちました。他の同修達がAさんの自宅に法を学びにいっても、その犬は側で寝ており、師父の説法の映像を流しても、その犬は静かに伏せて聞き、Aさんが真相の資料を印刷していても、犬は側で見ています。「修煉者は飼わないほうがよい」と直接指摘する同修もいましたが、甲さんは「法理はよく分かっているが、どうしても犬を人にやることができない」と言います。新しい飼い主が犬に優しくしないかもしれないと心配しているのです。Aさんの犬に対する情は相当なものだと分かります。しばらく前、Aさんにとても深刻な病業が現れました。それにもかかわらず、依然として、この最も基本的な執着心を取り除くべきだと気づいていないのです。

 同修Bさんは子供の頃からペットが好きで、当時、家で猫を飼っていました。その猫が亡くなった時、Bさんは泣き止まなかったそうです。昨年、息子さんが1匹の猫を連れて来て、お母さんに飼わせようとしました。Bさんは最初の頃、猫を人にやるとか、飼わないとか、三つのことの妨げになってはならないとか言っていました。しかし、2、3日だけ飼ってみると言っているうちに、手放せなくなり、気が付いたらもう1年余り経過しました。毎日猫に入浴させ、えさをやるうちに、次第に猫との間に情が出来てしまい、だんだん「毎日そんなに猫に時間も掛けていないし、自然に任せよう」と思うようになりました。数カ月前に、ようやく猫を他の人に譲ることが出来ましたが、しかし、たった1日だけで、送り返されて来ました。本当に「神を招くのはやさしいが、送り出すのは難しい」[1]ですね。同修達はこの事について、Bさんと交流しました。彼女も法理をとてもよく分かっており、三つのことを妨害することになりかねないことも認識しています。しかし、本当に目覚めて、本当に自分の執着心を放下するまでには至っていません。

 師父は次のように説かれています。「しかし宇宙には、動物が修煉して成就することが許されないという理も存在しています。ですから、古い書物には、何百年に一度、あるいは大小の災厄ごとにそれらのものを殺すことが書かれています。動物も一定期間経過して、功が伸びれば、落雷などでそれらを殺さなければならず、その修煉を許しません。動物は人間の本性を持たないので、人間のように修煉してはならないのです。人間の本性を持たないために、修煉して成就すれば魔物になるにきまっているからです。ですから、修煉して成就することは許されず、天罰を招いてしまうのです。動物もそれを知っています」[1]

 師父はまた次のように説かれました。「遠い昔のインドで、修煉に非常に精進していた一人のバラモンの弟子がいました。彼は山の中で独修をしていました。ある日、一人の猟師が一匹の鹿を追って、その鹿を撃って傷つけました。この鹿がこの弟子のところに逃げてきて、彼は鹿を隠して保護しました。彼は山の中で一人でとても寂しく、この鹿を飼い始めました。人は執着心に注意しなければ大変なことになります。常人の憐憫の心や人心の情に対する執着は全てこの小鹿に注がれ、後に彼はこの鹿に対してとても執着するようになりました。最後にはこの鹿は彼のもっとも親密な仲間となり、その結果彼は全ての精力をこの鹿に注ぎ、坐禅を組むときにも思想を静められなくなり、鹿に何を食べさせようかと考えるようになり、精進することを緩めてしまいました」 [2]

 「数年が経ち、この鹿はある日突然死んでしまいました。彼はとても苦痛に思い、いつもこの鹿を想うようになり、さらに精進できなくなりました。このとき彼の年齢はすでにかなり高くなっていました。修煉者でなければ生命は延長できず、彼はもう修煉できなくなったので、彼の生命も終わってしまいました。彼は生命が終わるときになっても修めていた佛法のことを考えずに、あの鹿のことを考えており、このために彼は死後一匹の鹿に転生しました。人が死ぬ間際に執着して何かを考えると、その人はその考えているものに転生することがあります。そのため彼は一匹の鹿に転生したのです。これはとても悲しいことです。一人の修煉者が、とてもよく修煉していたのに、最後に駄目になってしまいました。修煉者はできるならやはり動物に執着しないほうがいいのです」 [2]

 まだ小動物を飼っている同修に目覚めて欲しいのです。修煉は厳粛なものです。大法によく照らして自分を見なければならないのです。小動物を飼育することは法に合致しているかどうか、このような行為は法を正す時期の大法弟子の称号にふさわしいかどうかよく考えるべきです。同じ問題を抱えている同修達に早く小動物に対する情と執着心を放下してほしいのです。この千載一遇の修煉の機縁をしっかりと掴み、着実に実修し、落伍しないよう、自分の修煉の道に人為的に障害を加えないよう、自分の修煉に悔いを残さないよう、自分の修煉を一朝にして無駄にしないように、古い勢力に乗じさせる隙を作らせないよう、迫害の口実を与えないようにしていただきたいのです。

 私達が歩む道は未来の人達に残すものです。一歩一歩正しく進まなくていいのでしょうか? 師父の恩に報いることができるでしょうか? 同修達よ、時間を大事にして、自分をよく修め、法を実証し、衆生を済度し、自分の先史の誓約を果たしましょう。

 合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『転法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/22/278467.html)
 
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