修煉の中での向上
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2014年7月15日】慈悲で偉大なる師父こんにちは。同修の皆さんこんにちは。

 縁があって大法に出会い、修煉を始めてから7年が経ちました。勧められるまま、2時間の煉功と1時間の学法を毎日やりましたので、最初のころの修煉の向上はよかったです。体の浄化を感じられ、無病の状態になり、この法は今までの私がやってきた仏教とは完全に違うものと認識できました。専一の問題も乗り越えることが出来ました。初心のころの情熱は素晴らしいものだと今も思います。

 始めのころの学法は『轉法輪』を繰り返して読んでいましたが、必要に応じて、経文が目の前に届けられました。『精進要旨』というものがあるらしいが、ぜひとも読んでみたいと思っていると、行っていた煉功場で「これ読みますか?」と修煉者から2冊の『精進要旨』を渡されました。なぜ私の心の中がわかるのだろうと目が丸くなりましたが、師父の法身が手配してくれたのだと後でわかりました。法への認識も深まり、師父が説かれたすべての説法を順番に読む必要があると思い、パソコンからダウンロードして、自分で全部印刷して読むことにしました。1回目の経文は師父の慈悲に触れては涙が出るので、外では読まないようにするほど感動しました。

 半年間で心身ともに向上しましたので、1年後、2年後はどのようになるのかと楽しみでもありました。6年が経った昨年、あっという間に時間が経ってしまったが、忙しく活動や生活に追われる中に、このままでいいのかという思いもありました。煉功、学法は続けているし、三つのことも行っているが、どこか形骸化したような、もっともっと心を込めてやらなければいけないと考えていました。

 そんな中で心性を上げる機会を与えられました。

 一、神韻の宣伝でテレビに出演

 去年の神韻の広告において、テレビの生放送番組に出て、宣伝をすることが決まり、私にその依頼がありました。地方の局ですが、テレビはとてもいい宣伝になります。私は常人の時、仕事の関係で、何度かテレビやラジオの放送に出たことがありました。もし、失敗しても、恥をかくか、役所に始末書を書くだけのことですから気にもせず、気楽に出ていたのです。

 しかし、神韻の宣伝となると、失敗すれば、大法に泥をぬることになりますので、自分は適役でないからと他の人を推薦して断りました。ところが、数日後にまた受けてほしい依頼がきたのです。ずいぶん考えましたが、これも按排かもしれない、神韻のために頑張ろうと覚悟して、引き受けることにしました。もっと自分のレベルをあげ、純粋になるように心を込めて煉功や学法、発正念をやらないといけないと思いました。

 さらに、今の自分の心性では乗り越えられない。心性の向上が必要でしたが、どういうふうに心性を向上すればいいのでしょうか。そんなとき、あることが起こりました。わりとよく交流していた新しい学習者とメール交換していた時のことです。内容は神韻のことでした。お互いの認識の違いから、私が指摘したことに、すごい剣幕で怒りだしたのです。間違えたらいけないと思って指摘してあげたことなのですが、相手が気を損ねたのは事実ですから、すぐに率直に誤りました。しかし、相手の怒りはさらに続き、しかも、返ってくるメールは私へのメールではないようなものでしたので、「私は稲垣博子ですが、メールの相手が間違っていませんか」と返したのです。突然こんなことになり、いろいろなことをしてあげたのに、と思った瞬間、「彼の心性の位置に功が到達した後、その功をさらに伸ばそうとする時には、人との軋轢やトラブルも際立ってきますので、さら心性を高めてきかなければなりません」の部分と「それ以上向上しようとすれば、基準もさらにあげなければなりません」の『轉法輪』の説法を思い出しました。私のこのトラブルも、私が心性の向上を望んでいたから、師父が按排してくれた関であると悟りました。それなら、一歩さがって寛大になり、理不尽なことをいわれても気にするのはやめよう。こんなことで心性が向上できるなら、相手には感謝しなければいけない。このように考えたら、心はとても静かになりました。矢継ぎばやに来ていたメールも止まりました。

 その晩は、非常に穏やかな気持ちで師父の法像に向かって報告できました。師父ありがとうございます。関を乗り越えることができました。これで、テレビ局の神韻の宣伝番組に頑張ります。

 次の日に、その学習者から私を傷つけたことへの謝りのメールが来ました。私は心性の向上が必要であって、このことで関を乗り越えることができたので、あなたには感謝しています。と、この一連のことをメールしたところ、修煉者の対応を学ばせていただきましたと、返事が返ってきました。本当に師父に見守られていると実感しました。

 テレビ出演の20日前に打ち合わせがあり、神韻のプロモーションビデオを放映して、司会者2人と神韻の紹介の会話をすると決まりました。会話は事前に台本をつくるのでその通りにと言われたので安心していましたが、プロモーションビデオの長さがなかなか決まらないので、台本も出来ず、結局送られたのが、本番の前の日でした。自宅の大きな鏡の前で一人で何度か練習したときは、なんとかなりそうな感じでした。ところが、カメラの前ではどうだろかと自分でiPadをもって録画しながら練習すると、録画ということが意識するのか、覚えた台本を考えるという一瞬の隙ができるのでした。明日が本番で不安と心配でいっぱいになりそうでしたが、純粋な気持ちで頑張ろうと自分に言い聞かせました。本番のスタジオはオープンスタジオで、同行してくれた同修たちが離れたところで発正念してくれているのがわかりましたし、このテレビ局の部長も私のマネージャーのようにサポートしてくれました。みんなが神韻の宣伝番組に協力してくれて、不足な私を助けてくれて無事終了しました。後で、録画されたものを見ると、自分ではないような笑顔で少し恥ずかしいものでしたが、師父に加持していただいたんだと悟りました。

 二、天国楽団でインドに行ったときのこと

 私は2008年に日本の天国楽団が発足した当初からに参加していました。楽器はアルトサックスです。海外の活動にも多く参加してきました。その中で、インドや香港のパレードは気候や環境がかなり過酷でしたので、いろいろな面で私を向上させてくれました。修煉だと思っていましたので、不満に思うことはありませんした。そんな中で、ある体験があります。2009年にインド活動に参加した帰り、インドの空港の手荷物検査所で楽器ケースを開けるように言われ、検査官からここで吹いてくれと言われました。戸惑いながら、大法の曲を聴かせるのも洪法につながると思い、慌ただしく楽器を準備したのです。この時、まだ楽団に参加したばかりの未熟さと一人で大きな音を出すことに緊張して、「法輪大法好」の前奏部分しか吹けませんでした。みんなニコニコと喜んでくれましたが、あとで、前奏部分でやめたことがとても悔やまれました。素晴らしい大法の曲を聴かせ、法を伝えるチャンスだったのに、どうしてやめてしまったのだろう。もし次の機会があったら今度は、絶対最後まで演奏すると心に誓ったのです。何度もこころの中で叫びました。

 こんなことが二度もあるわけないのですが、大法は本当に不思議です。また同じことがあったのです。2013年10月のインドの活動の帰りに、また空港の手荷物検査所で演奏してほしいと言われました。あれから、4年たち、楽団での練習の他にサックスの個人レッスンも受けていますから、技術的にも向上しています。今度は笑顔で、「法輪大法好」を最後まで演奏することができ、演奏後に大法のチラシや蓮の花を渡すとみんな喜んで受け取ってくれました。隣で聞いていたインド人の男性にチラシを渡そうとすると、「去年、テレビであなたたちの演奏を聞いたよ」と言ってくれました。そうなのです、2012年12月のインド活動ではアジア天国楽団の演奏がテレビ放映され、インドの一億の人が天国楽団の演奏を聴いたのです。とても素晴らしい体験で、参加できたことを誇りに思いました。

 ところで、今回一人で「法輪大法好」を演奏している時に、あることに気づきました。この演奏はもっときれいな音を響かせて美しく吹くことができる。しかし、いまこれ以上の演奏は失敗の恐れがあるというものでした。『轉法輪』の中の「もっと上へ上がってみなさいと言ってあげたら、いやそれより上へは登れず、怖くてできない」と説かれてくるのを思い出し、今の私の次元はこれぐらいで、まだまだ心性の向上や他のいろいろな向上が必要なのだと悟りました。

 三、天国楽団の活動で一体になる

 楽団のパレードの中でも、協調や他人の不足を補うという体験があります。楽団員の演奏レベルはまちまちです。各修煉者の仕事や今までの経験、様々な条件がありますから、当然なのですが、演奏しているときに他の楽団員に対して、なんでこんなにミスが多いのだろう、もう少ししっかり練習して間違えないでほしい、という念を起こすとたいてい自分が間違えます。何度がこんな体験があって、自分の観念を変えました。それぞれが大変な中で一生懸命やっています。他の修煉者の不足を黙々と補うという師父の説法を思い出し、私がこの人のミスをカバーしようという思いで演奏するようにしました。それから私の心も穏やかに純粋になり、演奏も向上しました。

 2014年6月15日の浅草のパレードは日本の天国楽団の最高の演奏だったと思います。浅草は多くの中国人観光客が訪れるということで、申請した初めてのパレードの場所でした。多くの観光客が集まる雷門前は、まるで香港のパレードのように人々の反応がよかったです。あとで聞くと配るチラシもなくなるぐらいでした。交流会のとき、同修から天国楽団のメンバーが光輝いていたという発表を聞いて、涙が出るほど感動しました。日本の天国楽団もやればできると自信がもてたパレードでした。楽団の人数は多くなかったのですが、一体感は海外活動と同じくらいに感じられました。このパレードに参加しなかった楽団員はとても残念なことだったと思います。一回一回の法を実証する機会を大切にしたいものです。

 日本の天国楽団も発足当初は多くの団員がいましたが、いろいろな理由で出てこなくなってしまいました。初志貫徹と師父が説かれています。再び戻ってきて輝かしいパレードにいっしょに参加できたらと思っています。

 四、日々の生活の中で向上する

 天国楽団の活動は、肉体的にも精神的にも、かなり過酷な状況になるとわかっていますので、すべてが修煉と思って対処しますから苦しくても乗り越えることができます。しかし、活動の時間よりも日常の時間の方が長いですから、ひごろから修煉者らしくできるよう気をつけるべきと考えるようにしました。心の中が静かでなくなりそうになるときに、『轉法輪』に説かれている「平素から慈悲の心と、穏やかな心理状態を保たなければなりません」を暗誦して、心を修めます。すぐに修まらないときもあり、そういうときは師父が経文で説かれたように相手のいいところを探して、自分にとってよくないところを考えず、相手の頑張っている姿を思い出して、寛大になることに心がけてます。よく知っている相手や修煉者なら、これで乗り越えることが出来ます。先日、無礼な常人が隣にきてしまいました。口に出して不満を言うことは絶対にありませんが、心の中が穏やかでないのはよくないとわかっているのに、不満に思う気持ちが少し残っているのがわかります。この私心をどうしたらいいのか、どのように放下すべきかと考えていたら、2006年マンハッタン説法の中に「本当に不当な扱いを受けたかもしれませんが、その話は必ずしもその人が言ったのではなく、私が言ったのかもしれません。そのとき、あなたがどのようにこれらのことに対処するのかを私は見ており、相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります」とあるのを思い出しました。そうです、もし隣の人が師父だったら、絶対にニコニコしている。この一念がでたとき、わだかまりがすっと解け、小さな問題から抜け出ることが出来ました。

 『精進要旨』に「経文とは何でしょうか。つまり、常に読む文章でが、皆さんは読んでいるでしょうか?法を多く学べば、仕事がうまくいかないことはありません」とあります。つね日ごろ、法に接して頭の中に大法がいつもあれば、問題が起きても小さなところで食い止めることができると感じています。法を学ぶ大切さはよくわかっているのですが、忙しさからとついつい時間が取れなくなることもあります。そこで、たとえ5分10分でも時間を見つけて、その時間を学法に選択できるかを実践するようにしました。心を落ち着かせて、5分学法する。5分だったのが、次の時間は10分でき、その次は30分、と徐々に時間が多くとれるようになりました。このことから、いかに選択するかということを見られていると悟りました。

 「世界大法デーの説法」の中で、師父は、修煉は厳粛であると「厳粛」を何度も説かれていました。『轉法輪』の中でも『精進要旨』の中でもこの「厳粛」に目がとまります。やはり、私に厳粛さが足りないと認識しました。人はどんなことでもなれてくるとだんだん緩んできます。特に、日本のこの環境は緩いから危険だとわかりつつも、緩んでしまっていたのです。これからは厳粛さを忘れずに修煉の歩みを進めて向上していきたいと思います。

 五、師父に感謝して

 修煉を始めて、体も無病状態にまで調整して頂きました。修煉の環境も全く変えてもらいました。ほしいものもやりたいことも全部整えてもらっています。師父への感謝は言葉ではつくせません。それにこたえれるように、時間のあるかぎり、勇猛邁進で精進していきたいと思います。

 助師正法、救度衆生(師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する)。

 師父ありがとうございます。同修の皆さんありがとうございます。

 (2014年アジア地区法輪大法修煉体験交流会)

 
 
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