文/日本の大法弟子
【明慧日本2014年7月24日】私は、修煉を始めてからもうすぐ4年になります。実は今回、本当は修煉体験を書きたくなかったのです。自分の中で「書かなければならない。でも書きたくない」と、この2カ月間葛藤していました。協調人の同修にも、「書きます」とか「やっぱり書きません」とか優柔不断な態度をとっていました。いつもは修煉体験を書くことはそれほど苦ではなかったのです。というより書くことがあり、喜んで書いていました。がんばっていることや、なしとげたこと、それを偉そうに得意げに書いていました。私は顕示心がかなり強いのです。しかし、今回ばかりはそうはいきません。わたしは、大きな失敗をしてしまったのです。ずっと頭の中はその事でいっぱいでした。それを人に話す勇気もなく、ずっとそのままでいました。
先日、他の地区の煉功場に行った時に修、煉体験の原稿をお世話してくださっている同修に思い切って話してみました。「修煉体験ですが、反省ばかりの体験でも大丈夫ですか? みっともない内容でもいいですか? 『この次はがんばります』というような内容でもいいですか? 今回は正直書きたくないんです。本当に最悪な大失敗をしました。もう終わりです・・・」
すると、同修はこのように話してくれました。「あなたが書くことで師父は助けてくださるかもしれません。書かなければ師父に分からないと思います」。わたしはこう言いました。「私がしたことは、自分で始末しなければいけないことです。師父に申し訳ないです。たぶんもう円満成就は無理です。時間がありません」 。同修は「あなたは、円満成就に執着していませんか? まだ、師父の法を正す時期は終わっていません。師父はあなたの他の空間の汚い物質を消去してくださることができます。師父にお話しなければ、師父にもどうにもならないと思います」。他の同修も「書くことで、分からなかった他の執着も見つかるかもしれません」と話してくれました。このことを聞いて、わたしはがんばって書こうと決心しました。
そして煉功場の帰り、今までわたしの頭の中にあった、重くのしかかったような黒い物質が半分くらい無くなったような気がしました。朝起きると体がとても軽かったです。わたしは喜び、このとき歓喜心が生じました。その日、昼間は常人のことで忙しくしてしまい、夜になってなんとなく体がとても疲れて、夜9時になってこたつの中で眠ってしまいました。目がさめたら深夜1時20分でした。絶対に参加しなければならなかった明慧ネットの交流も参加せず、夜の発正念もできませんでした。修煉は厳粛です。少しでも気を緩めるとふるいにかけられるように、振り落とされてしまいます。
33年前、私は親に干渉されることがいやで、19歳で結婚し子供を産みました。しかしその後、夫の暴力と生活のために作った借金で苦しくなり、わたしは子供をおいて家を飛び出しました。その後、出会った人と結婚しました。その人とは6年間一緒に生活しましたが病気で他界しました。遺族年金をもらいながら細々と1人で暮らしていましたが、今の主人と出会い一緒に生活を始め、それから4年ほどで法輪功に出会いました。気功教室が市の広報誌に10回の無料講習として掲載されていました。気功とは手をかざして人の病気をエネルギーで治療するものだと思っていましたが、教室へ行って話を聞き、これは修煉であるとすぐに分かりました。
法を学んでいくうちに婚姻をしていない男女が一緒に暮らしてはいけないことが分かりました。主人は、奥さんとお子さんには養育費として給料の半分を渡していましたが、このままではいけないと思い、「奥さんと別れてほしい」とお願いしました。主人は言うことを聞いてくれず、わたしは、それまでもらっていた遺族年金をやめたり、主人との性的な関係をやめたり、いろいろと努力をしましたが、主人はかたくなになる一方でした。それどころか「おまえのやっている宗教をやめろ、やめなければお前とは籍を入れない」と言われました。「法輪功は宗教じゃない」と泣き叫びましたが、まったく分かってもらえませんでした。その後も、何度も説得しようと今度は強気に出て、主人を脅してしまいました。極端に走ったため、ますます主人はかたくなになり、主人は私が煉功をすると「まだそんなことをやっているのか!」と怒るようになりました。主人と別れようかと思いましたが、今別れたら「法輪功は悪い」と主人の脳裏に焼き付いてしまうし、主人のご両親も私のことを新しい嫁としてとってもかわいがってくれています。それでわたしは主人の元を離れることをあきらめました。また、主人は身体の不自由な私の母のことを嫌がらず一緒に生活をすることを快く同意してくれた良い人で、私との縁も深いと思い、救わなければいけない人だと思いました。
その夜、師父が夢に現れてくださいました。わたしは、師父とラーメン屋さんにいました。師父はニコニコと「旦那さん、籍を入れてくれなくて困りましたね」とおっしゃいました。わたしは「はい、困っています」と答えました。わたしの前にラーメンが置いてありました。ラーメンはとてもおいしそうでしたが、チャーシューが山盛りに乗っていました。わたしは肉が嫌いなので、どうしようと思ったところで眼が覚めました。これはどういうことなのでしょう。 『轉法輪』の「肉食の問題」のところを読んでみました。「ですから歴代の高僧も、肉食という問題自体が肝心ではなく、肝心なのはその心を捨てられるかどうかにあり、執着心さえなければ空腹を満たすために何を食べてもかまわない、ということを知っていました」と説かれました。わたしは、その心を捨てることが肝心だと悟りました。
以前の貧乏な生活に比べると、主人は奥さんにお金を送金していますが、一生懸命仕事をする人なので、今の主人との生活はとても楽でした。大法に出会ってからは、生活がますます豊かになってきました。わたしは今までできなかった習い事をするようになりました。フラダンスからはじまって、お茶、お花、フォークダンス、ピアノ、詩吟、絵手紙、水墨絵。そのおかげで私は多くの人と縁を結び、神韻や大法に次々と先生や一緒に習っている友人を誘うことができました。が、その反面わたしは常人の楽しみの中に半分溺れる様な生活をしていました。
大法に出会ってからのわたしは、教室の先生からも信頼され、会計などもまかされるようになっていました。前回の神韻には詩吟の先生をお誘いしました。私の友人に先生と親しい人がいて、その人に新幹線の中や公演会場で先生のそばに居てくれるようにお願いしました。先生は神韻公演にとても感動してくださり、次の日にすぐにわたしの友人に電話をくださったそうです。「こんなにすばらしい公演に招待してくれてありがとう。とても楽しかった」とおっしゃっていたそうです。しかしわたしは、その時こう思ってしまったのです。「お礼を言わなければならないのは友人にではなく、この私ではないの? わたしが先生を招待したのだから!」。わたしはものすごい顕示心があり、人に褒められることに慣れていたので、このような心が出たのです。自分でもびっくりするような醜い嫉妬心です。師父は『転法輪』の中で、「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、皆さんが修煉して円満成就できるどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」と、ご教示されました。わたしは正念でその心を消しました。すべての毛穴から芋虫のようなものやドロドロとした黒い液状のものが出てくるのを感じました。
去年の暮れに日本舞踊の先生と縁があり、この人も救わなければならないと感じました。先生に「神韻を見に行きませんか?」とお誘いしましたが、時間がとれず行く事はできませんでした。「来年は東京公演があります」というと「次回の神韻は見に行くわ!」と言ってくれました。その後、迷わず日本舞踊の世界に飛び込みました。練習の日は時間を調整してなんとかなりましたが、この趣味は裕福な家庭の人たちがされている趣味の一つで、お金がかかります。発表会のたびに先生にお金をつつまなければいけないようです。着物もみなさん豪華で、わたしは化繊の安い着物しか持っていませんでした。最初はそれでも、人を救うのに贅沢な着物なんていらないと思っていました。
先日着物の展示会があって、二科展作家の着物が飾ってありました。わたしは、あまりの美しさに眼を奪われました。そこで販売している京都の女性にも縁を感じ、「この着物を買って、この作家の先生とこの人を次の神韻にお誘いしなければいけない」と思いました。そして、そこにあった、着物と帯をクレジットカードで購入してしまいました。今までカードを使っても一括払いで、次月には支払いが終わっていましたが、今回は金額が多いのでローンにしました。数日後、用事があったので呉服店に行くと、そこにあった帯とプラチナのネックレスを店員に勧められ、断りきれずに「ローンで支払えばいいや」と思い、また購入してしまいました。こうして私は総額約250万円のローンを平気で作ってしまったのです。わたしは、家に帰ってから冷静になって考え、かなり後悔しました。クレジットカードは簡単に使えてしまうのですが借金なのです。
師父は『2004年ニューヨーク国際法会での説法』でこうおっしゃっています。「私は融資に賛成しません。くれぐれも借金を作らないでください。借金を作らないでください」
私は表向きは「人を救うための借金です」と思っていましたが、内に向けて探すと実際は「今までがんばってきたから、少しくらい贅沢してもいいよね」という物欲と安逸心、「4月から3パーセント消費税があがるので今のうちに買いましょう」と得をしようとする心、そして「美しいですね」と褒められたい心でした。「まだ師父の法を正す時期は終わらないよね。まだ大丈夫」という恐ろしい考えも生じていました。誰がそれを決めるのでしょうか? お決めになるのは師父ただお一人です。それに、この法を正す時期が終わらないということは、中国で今迫害をうけている同修の苦しみが続くということです。このような考えは許されないことです。考えれば考えるほどわたしは落ち込みました。「師父はもうわたしのことをお見捨てになったに違いありません」と思いました。
先日、母の用事で頼まれたものをお店に受け取りに行きました。そこにはテレビが置いてあり、いつもテレビに興味のないわたしですがそれをぼんやりと見ていました。内容はある国の人々の話で、お客さんや恋人の前や特別な時には見栄を張ることが当たり前になっているそうです。高級車や豪邸をレンタルして、さも自分の物のようにお客さんを接待するそうです。「見栄」という二文字がわたしの頭の中に焼き付きました。これはまさしく私の姿ではないでしょうか。わたしはこの、「見栄」のためにあの高価な着物を購入してしまったのです。人から貧乏だと思われたくなかったのです。師父は悟りの悪いわたしに、わかりやすい方法で教えてくださいました。発正念の時にその執着心がごつごつした甲羅のようにわたしの体を覆っているのが見えました。なかなか剥がすことができなかったのですが、この文章を書くことを決めてからその固い甲羅は少しづつ無くなってきたようです。
その後、食事付きの着物の展示会に行くことになっていました。これは前から約束をしてしまっていたので、しかたなしに行ったのですが、また着物を着せられたのです。これも美しい着物でした。友人と一緒だったので、断る事ができず、たまたまカードを持ってきていなかったので約束だけしてきました。わたしは、家に戻って再び落ち込みました。わたしは無料で食事をした上に、また見栄を張ってしまったのです。このままではいけないと思い、断るためにお店に戻りました。お店の人を説得して、なんとか断ることができました。この見栄を張るという執着心は本当に根強いです。先日も、見栄を張って美容院で必要の無いトリートメントをしてしまいました。何故わたしは勧められると断れないのでしょう。今これを書いていて、人から良く思われたい、良い人だと思われたいという執着心があることに気付きました。もっと突き詰めてみると、人に嫌われたくないという心があることがわかりました。人から嫌われる事を恐れているのです。よく考えると法輪功の教え「真・善・忍」を全うすれば、人から嫌われることなどないはずです。
さらに、3月には着物を購入した人限定の無料旅行に招待されました。最初は「大法弟子はそんな無料の物に飛びついてはいけない」と思い断っていましたが、考えが変わって参加しました。その後すぐ、仕事の関係でお客さんと宅配会社との間でトラブルがあり、結局私がお客さんに約25000円を支払って解決しました。やはり無料で何かをもらったりした場合、必ずどこかで返済を求められると深く反省しました。
4月中旬に同修たちと師父のお誕生日のお祝いの写真を撮るために公園で煉功をする機会があり、わたしは、CDデッキを持って行く事になっていました。協調人の同修から「皆そろっているので、早く持ってきてくださいね」とメールがありました。アクセルを踏んでスピードを出そうと思っていた時、軽トラックがわたしの目の前に現れました。かなり遅いのです。本当はその車は普通の速度で走っているのですが、わたしがスピードを出したかったので遅く感じたのです。よく見るとその車は同修で、わたしと同じ場所へ行く途中でした。少しイライラしてきました。「同修のくせになんでわたしの邪魔をするの! 遅れたらあなたのせいよ!」左から追い越そうとしたら、大型トラックが横にぴったりと並んできました。どうやっても追い越せない状態です。イライラしながら煉功場に到着すると、午前中にする予定の煉功は午後に変更になっていました。師父からのテストだったのだと気がつきました。わたしはいつも時間に追われる様な毎日を送っています。時間が足らないといつもイライラしているのです。それと、わたしの前に走っていた同修のことも内心見下していたことに気付きました。しかしこの同修は病気のお姑さんの看病と、家の仕事を両立して煉功学法も毎日かかさず、わたしよりよっぽどしっかり精進しているのです。また先日、この同修は私に「キッチンのリフォームをしたいんだけど、師父が法を正されているこの時期にお金を使ってしまってはいけないと思い、控えました」と話してくれました。なんてりっぱな修煉者でしょう。同修に本当に申し訳なかったと思います。
また、先日は結婚式に参加している主人を待つために、レストランで時間ををつぶしていると向こう側の席の男性が私に手を振ってきました。わたしは無視をしましたが、その直前にわたしはその人が「芸能人の◯◯◯に似ているなあ」と無意識に思っていたのです。わたしに酷い色欲があったのを恥じました。わたしは男女を問わず綺麗な顏の人を見ると「なんて美しいのでしょう。誰々に似ているかも」と感動してしまうのです。正念でそれを滅すると、頭の中にあった真っ赤な覆いが剥がれるのがわかりました。
この数カ月、あまりに大法弟子として、失格の要素が多すぎる自分にうんざりし、「なんでこんな最悪の事態に修煉体験を書かなければならないのでしょう。書いてもみっともないだけよ」と思っていましたが、 これは師父のお優しいご慈悲と悟りました。
師父は、大法弟子の修煉についてこうおしゃってくださっています。
「確固として法をしっかりと勉強し、過ちを改め、再び良く行なうようになることができれば、あなたはまだ大法弟子です。再び良く行なえば良いのです。それを重く見ないでください。考えの中でそれを重く見てしまえば、またもう一種の悔恨、心配などの圧力を形成してしまったら、あなたはまたこの執着の中に陥ってしまい、乗り越えられなくなります。大法弟子の修煉の全過程はつまり人間の執着心を取り除く過程です。どんなことに遭っても、それを認識し、直ちに改め、転んだらすぐ立ち直り、引き続き大法弟子として行なうべきことを行なえば良いのです」(『2003年カナダバンクーバー法会での説法』)
5月から、私達の地域では、煉功場の責任者と古い同修で毎週交流会をすることになりました。その日、私は司会を担当していましたが、常人の仕事があるために遅くとも4時半には家に帰りたかったのです。3つの荷物を6時50分までに宅配会社に持って行かなければなりませんでした。4時頃から私の心はソワソワしてきました。すると他の同修も私につられるように湯のみを片付けだしたのです。その時、1人の同修が自分の経験を話してくれていました。私はまた時間に追われていることに気付きました。私は心を落ち着けて、これではいけない、常人の仕事よりも大法のことのほうが大切だと思い、5時までしっかり交流会にとどまることにしました。帰り道、師父にご加持をお願いしました。不思議なことにいつも煉功場から家まで車で30分かかっていたところ、20分で家に帰る事ができました。大きな荷物を丁寧に梱包し伝票を書き、いつも2時間かかっていた仕事は半分の1時間で完成しました。時計を見ると6時半でした。まだ時間があると思い、いつも散らかしたままで急いで荷物を持って行くところ、その時はきちんと周りの物を片付ける事ができました。時計を見るとまだ6時半でした。とても不思議です。時間が止まっていました。私は余裕をもって宅配会社に荷物を持っていくことができたのです。
また、主人との関係のことですが、師父が私に教えてくださった「その心を捨てる事」というのは、「籍を入れたいと思う心」を捨てて諦めることだと今までは思っていましたが、この修煉体験を書かせていただいて、その心の本質は「主人に対する恐れの心」を捨てる事であることに気付きました。恐れの心は慈悲心のないことの現れではないでしょうか。どのように主人に言ったらよいか、しばらく悩みました。主人に大法を反対されてからの私は、波風がたたないように、大法について何も言いませんでした。そして、いつも主人が海外か遠くに転勤にならないかなど、自分の都合のよいことをいつも考えていました。主人が尊敬していて、私たちのことを良く知っている友人にこのことを相談してみようかと思いましたが、私は大法弟子です。常人に頼る訳にはいかないと思い、私は大法弟子らしく慈悲心で、常人である主人が理解できることを話してみようと思いました。まず私は、「私が主人の立場だったら私がどのように変われば嬉しいでしょうか」と考えました。今まであまり会話がなかったことに気付き、なるべく主人と会話をするようにしました。そして忙しさにまぎれてほとんど手を抜いていた家事をきちんとするようにしました。
5月中旬、主人の実家は農家でその日は田植えをする日でした。毎年、親戚一同で田植えをします。私は嫁ではないので、まだ親戚に紹介してもらっておらず主人の実家に近づくことができません。世間ではほとんどの農家の嫁は、田植えを手伝っています。私は主人に聞きました。「私はいつになったら堂々と、お義母さんとお義父さんの家に自由に出入りすることができるのですか?」主人は「分からない」と言いました。私は師父にご加持をお願いしました。「師父、私は籍を入れる事に関して主人に何と言ったら良いでしょう。その時が来たら言える様に助けてください」。その夜、仕事でたまたま外国のお客さんから主人の名前を聞かれました。私は、メールで「 My husband’s name is ◯◯◯.と書きました。そして、そばにいた主人にこう言いました。「私は、人に夫の名前を聞かれるときが一番辛いです。銀行や役所では、私は、『△△さん(戸籍上の名前)』と何度も呼ばれるんです。その度に私はとても辛い思いをします。早く『◯◯さん(夫の名字)』になりたいです」と素直な気持ちで言いました。すると、主人は「そうだなあ」とはじめて穏やかな声で言ってくれました。
その後、気功を始めたばかりの友人Yさんが動作を教えてほしいと家に遊びにきました。静功と動功が終わった後に主人が仕事から戻ってきました。主人は私の友人をとても気に入ったようで、私は主人にこう話しました。「Yさんはダイエットをしたくて私に気功を教えて欲しいと言ってきたので、今日は一通り教えてあげました」。主人はこう言いました。「気功で痩せられるのか?」私は「うん、気功をやった次の日に便秘だったお通じがすっきりしたって。それでね、とても効果がいいと感じて、今日も家にきたのよ」。初めて主人と気功について、普通に会話をすることができました。私は、不思議とこの時、頭の中がすっきりとしていて、主人への恐れはなくなっていました。主人には少しずつ、大法の素晴らしさを話していきたいと思います。いつか主人も大法の素晴らしさを理解してくれるときが必ず来ると確信しています。
また、今月から始めた煉功場の責任者の交流ですが、とてもよい効果を得ています。私の住んでいる地域の煉功場では、人が入ってきてもすぐにやめてしまう傾向がありました。内に向けて探してみますと、私自身に問題があることが分かりました。私は、いつも心の中で「煉功に来ても、どうせすぐにやめてしまう」と思っていたのです。現実もまったくその通りになっていたのです。師父の「相は心より生じる」の法理の通りになりました。同修にも、「『どうせ』という人を見下す言葉の中に顕示心があると思います」と指摘されました。まったくその通りです。私はそれ以来、その心を打ち消し、すべての人を自分より上に見るように努力しました。すると、私のまわりの環境が変わってきました。先ほどのYさんを始め、友人3人が煉功を始めるようになったのです。今まで、なぜ人が入ってきても、すぐにやめていったのか、あらためて分析をしてみました。まず、私が、強制的に上から目線でむりやり修煉をさせていたことに気付きました。自分では優しく言っていたつもりですが、言葉のどこかにその心が現れていたのだと思います。
私は、自分のことで忙しくしてしまい、同修との交流の場になかなか参加できず1人で突っ走ってしまい、次第に旧勢力の道を歩んでいました。修煉は自分との戦いなので、1人でがんばらなければいけないと思っていたのです。しかし、今回のことで、1人で抱え込まずに同修と交流することはとても大切なことだと思いました。同修同士で切磋琢磨することができますし、もしあの時、同修に自分の問題を話していなければ、私は今頃、大法を修煉していく自信がなくなり、常人の染め物瓶にどっぷりとつかり、大法のことも師父との約束もすっかり忘れてしまっていたかもしれません。私の悩みを法理から解決してくれた同修に感謝します。
また、この文章を書かせて頂いて、自分の判断で物事を行い、突っ走っていたことにも気付きました。今まで失敗をしたことを立ち直れないほど後悔していましたが、失敗をしたことも修煉の過程で、この執着を乗り越える事が修煉であると悟りました。この機会を与えてくださった師父に感謝いたします。これからは必ず師を信じ、法を信じて、がんばりたいと思います。
同修の皆様、自分の次元で書いたものなので拙い文章です。お気づきのところがございましたらご指摘ください。