煉功を軽視せず 一心によく煉功する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年3月15日】最近、煉功について、いくつか感じたことがあるので、書き出して同修と共有したいと思います。

 長い間、私は精進する意志が堅くなかったため、学法と煉功はとてもだらけていて、学法も学法チームに従うだけで主動的にできていませんでした。煉功は更に主動的ではなく、ずっと私は重視していませんでした。法輪功は法が人を煉る功法であり、煉功しなくても法が私を煉っていると考え、どうしても疎かになり、ここ10数年はずっとこの状態です。この間、私の身体に良くない状況が現れました。歯をしっかりと噛んでいないせいか、突然痛くなりました。それから歯医者に行って、歯にあいた2つの穴を治療してもらいました。歯医者に状況を問い合わせてみると、彼は歯に被せたものが壊れたので、治療ができなくなり、歯が抜けるのを待つことしかできなくなったと言われました。私はこれが自分が煉功しないためにもたらされたのだと分かり、よく自分の内に向けて探して、しっかり煉功しようと決心しました。それから私は『大圓満法』を読み、師父の煉功DVDをもう1回勉強しました。実のところ一部の口訣を忘れてしまい、甚だしきに至っては口訣は声に出すのか黙読するのかさえ全て忘れていました。私はしっかり煉功しようと決心しました。これから自分の煉功の面における良くない考えをきちんと整理したいと思います。

 第一の不足は、私は煉功は負担であり面倒なものとみなし、苦しみに耐えたくありません。振り返って見ると、修煉をはじめてから、私は内心から喜んで積極的に煉功してはいませんでした。表面上では私は積極的に煉功をしていますが、それは特に修煉を初めた時でした。しかし細かくみると、それは煉功という任務を完成するためでした。また、多くの場合は私が煉功するのは外部の要因によるものでした。以前私は輔導員であり、朝3時過ぎに私の家からラジカセを持って行く必要があるため、早起きして煉功しないといけませんでした。しかし、自分の良心に尋ねてみると、本当に内心から喜び、積極的に煉功することは少なかったのです。迫害がはじまってから集団煉功の環境がなくなると、なおさら三日坊主になってしまい、その状態は今日まで続きました。

 また、もう1つの障害があります、無意識の内に私は「煉功は朝が早いし晩は遅くてとても大変だ」と思い込んでいました。私は煉功の素晴らしさを本当に身を入れて体得しておらず、煉功が「呼吸するのと同様に自然な事」のようにはなってはいませんでした。それどころか、私は、煉功は毎日どうしてもやるべき負荷であり、努力してやり遂げなければならないものになっていました。ある同修は「煉功しない修煉者がいるの?」と大変不思議に思います。彼女の考えの中では修煉者が煉功するのは当然なことであり、私はこの同修と比べると本当に恥ずかしいです!

 第二の不足は、煉功の動作が正確ではなく、自分に厳しく要求することができないことです。自分は以前輔導員として新しい学習者によく動作を教えていたとか、煉功の動作は比較的熟練していて、自分は比較的規範にも合わせているなどと、同修たちの大部分が同じくこのように思っています。

 そのため、彼らはふだん煉功の動作の手順をふんでいる状態ですが、最低限の時間内でさえ真剣に動作を覚えることができないため、多少動作が変わってしまって、きちんと行えません。たとえば私は毎回煉功し終わると、いつも疲れてしまい、腰に多少の痛みとだるさを感じていた時期がありました。はじめはこれは煉功の反応だと思い、気にかけていませんでしたが、同修の一人が動作を直す時、私の足が滑らかな状態ではなく、腰はリラックスしていないと指摘してくれました。私がその指摘通りに調整したら、確かに良くなって、腰も楽になりました。

 それからしっかり煉功しようと決心した後に、いくつかの動作を含めて、私は再び自分の動作を直しました。たとえば、以前は比較的難しかった頭のてっぺんで輪を抱く動作も、今この動作をする時、よく身体の各部位を調整して、法の求める基準に沿うように注意して、できるだけ正しくすると、はじめてだんだんと楽に感じてきました。もう以前のように難しく感じることもなく、心の中で 「どうしてまだ終わらないのだろう?」というような考えが浮かぶこともなくなりました。

 もうひとつは煉功DVDの通りに自分に厳しく要求して、師父がおっしゃるとおりに正確に行いました。以前はよく第3式功法の時に「どっちの手を上げるのだっただろう?」と考える事がありましたが、今、私は師父のご指示に従って、師父がおっしゃる通りにやり遂げます。すると少しの間違ったところがなく、効果はとても良いのです。私が悟ったのは、ここに師と法に対する尊敬に関する問題があるということです。神韻と同じように、すべての大法弟子の動作が統一されていたら、全体の威力は大きいのです。また「煉功するということは毎日師父の話に従い、師父が言ったことを行うように訓練すること」という事も悟りました。はっきり言うと、煉功は心を修める事と同じように絶えず自らを正して、絶えず向上することで、煉功すればするほど良くなる過程があります。動作は簡単ですが向上することは軽視できません(実は全て正確にやり遂げられれば大したものです)。

 私が悟ったことは、煉功の面だけから言うと、煉功する人それぞれの人が大部分の時間において(個別の消業の状態は除く)すべて師父のおっしゃっている状態であるべきです。「年寄りも、若者も身体が軽くなることを覚えるに違いありません」、「見た目には実際の年齢とずいぶんかけ離れて見え、外見からは人に若い感じを与えます」[1]。このように煉功の中でもあるべき功の状態は必ず現れます。もちろんこれは工夫を凝らして追求するものではなく、自然に体現するものです。もしこのような状態でなければ、私たちは煉功することを一生懸命に努力するべきでしょう。

 煉功はとても厳粛な事であるので、実はすべての動作でしっかり行う事はとてもやり遂げにくいのです。『大圓満法』にも、師父は「なぜ歯に隙間を置くのか? 煉功の時に、もし歯を食いしばるなら、エネルギーが運転する過程の中であなたの歯はますます食いしばることになる。どこかを緩めないと、そこは充分に演煉されることができない、それでそこが益々堅くなり、最後にそこは残って煉ることができなくなり、転化されず、演化できなくなる。歯に隙間を空ければ、それが緩む」[2]とあります。こんな小さな1つの動作でも、こんなに大きな影響があります。何事においても私達は真剣に対応せずにすむものでしょうか?

 私は今、毎日の煉功で動作の基準に達して、五式の功法は1回ですべて終わるように求めています。その上で動作、心も要求された位置に達して、絶え間なくその状態を正します。そして恭しく師父のご指示に沿って行うと、次第に煉功の美しさを体得できるのです。煉功はもう疲れる事ではなく、「煉功はあってもなくても良い存在」ではなくなります。それは喜びに満ちた心身の旅で、佛恩を浴びながら自らを更新する旅になります。私は師父のご指示を受けるたびに絶えずより多くの事を体得できるようになりました。もちろん煉功動作の正確さに多くの時間を使うことは言うまでもありません。毎日の煉功時間内で元気をふるい起こし、心を込めて一定の水準に達し、絶え間なく心を込めて煉功の素晴らしい境地に気づく事が出来さえすれば、絶え間なく自然に新しい成果を得られるでしょう

 また、他の典型的な2つ例があります。同修のZさんは修煉をはじめる前には、すごく車に酔っていました。外出する時にやむを得ず車に乗る時にも、他の人はまだ乗車していないのに、彼女はもう車に酔い始めます。彼女はもう10数年間煉功してもこの状態は改善していませんでしたが、彼女はその事をとてもおかしいと思っていました。数日前、私と交流した時、彼女は「以前から煉功を続けていますが、いつも三日坊主で、毎日煉功が少なかったことが今わかりました」と言いました。彼女は自分の不足を認識できました。それから彼女はよく煉功するようになり、毎日漏れのないように、漏れた時にも時間を見つけて補充すると決心しました。すると数十年間悩まされていたひどい車酔いの現象はいつの間にか消えてなくなりました。

 Zさんと違い、当地の同修Aさんは煉功にとても積極的で、時には1日2回行います。私たちは彼女に「多く法を学びましょう、煉功は1日1回で良いですよ」と勧めましたが、彼女はこう言いました「駄目です。学法すると眠くて、煉功すると眠くないから、また煉功したい」。このようにして彼女はずっとやり続けていましたが、その後に「もうだめだ」と言いはじめました。彼女は煉功するととても疲れて、時には功法を1つ煉功したら一旦止めて休まなければならず、一休みしてからまた次の功法を煉功していました。また足は黒紫色になり、歩くのも大変になりました。彼女は「自分の心性にどこか向上できていないところはないか一緒に探して欲しい」と同修に依頼しました。ちょうど私は煉功について多少新しい体験があったので、彼女に次のように言ってそれを気づかせました。「煉功の動作が正しくないのではないでしょうか、あなたがこのような状態であるのは間違いなくおかしいことです。煉功するとだんだん楽になるべきです」

 その時、彼女は簡単に煉功動作をしたのですが、その動作をみると、彼女の煉功動作には、正しくない所が多いことを発見しました。特にひざと股の2か所がこわばって、引き伸ばす時、頭をもたげて胸をまっすぐに伸ばして、立つ時に身体が上に仰いでいます。彼女は自分で煉功する時に、身体はいつも後傾していると言いました。このように、彼女は自分の動作が確かに正しくないということに気づいたのです。帰ってから彼女は自分で『大圓満法』と煉功ビデオをゆっくりと見ました。彼女はとても大きく向上し、今では体の状況が日々よくなっています。彼女はもっと早くに動作を正せばよかったと後悔しました。彼女はこの10数年の間こんなに疎かに煉功して、多くの時間を浪費してしまいました。

 師父はおっしゃいました。「皆さんは考えたことがあるのでしょうか? 修煉は最も良い休みです。あなたが睡眠で得られないリラックスを得ることができます。煉功して疲れて、今日何もできないと言っている人はいません。煉功で体中が楽になり、一晩寝ていなくても眠くなく、元気いっぱいだということはあります。一日仕事をしてもまったく何もなかったかのようです。そうではありませんか? ですから、時間がないとか、ほかの口実を作って外で煉功しない人は、私に言わせると、法に対する理解が浅く、精進の気持ちが足りないのです」[3]

 繰り返します。同修の皆さんは煉功を軽視しないでください、よく煉功できている状態を堅持してください。眠いことやぼんやりしていることなどが、私達が煉功することで消えてなくなるようにしてください! 私はこの体得したことを文章にした翌日の朝に煉功しました。すると、また師父は私に更にすばらしいものを体得させて下さいました。法輪を抱えた時に、身体全体が宇宙の中に溶け入り、残っているわずかな意識がその時のおおよその身体の状態を知っています。体はすべてすっかり透明で、何でも通り抜けることができるように感じます。浮き上がりそうで、とてもすばらしくて、心地が良いのです。このすべては、ただ私が煉功中にできるだけ本に書いてある動作の要領に沿って煉ることで、このような状態に達したものです。特に意識的に追求してはいません。私が悟ったのは『大圓満法』も法であり、その奥深いものは表面上に見えるような簡単なものではなく、また毎日ただ簡単に動作を繰り返せば体得することができるものでもありません。毎日の2時間、動作の要領に沿って煉功して、注意力を散漫にせず、全身全霊を煉功に投入していれば、功法のすばらしさは私達の体に現れてくることができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『大圓満法』
 [3] 李洪志師父経文:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/1/28/303705.html)
 
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