文/中国安徽省の大法弟子 安心
【明慧日本2015年12月6日】ある人が偶然、蝶(チョウ)の蛹(さなぎ)を拾いました。数日後、彼は蛹に小さな穴が開いていて、中にいる蝶が必死にその穴から外へ出ようとしているのに気付きました。いくら頑張っても外へ出られない蝶を助けるつもりで、彼はハサミで蛹を切り開きました。すると、蝶は容易に出てきましたが、蝶の体は肥大し、羽は細くて弱々しく、到底その体を空へ飛び立たせることはできません。結局、生涯地面を這い回るしかできませんでした。
蝶の世界は空にあり、蛹から必死に抜け出す過程で、体液を羽に押し流し、自身の体重を減らすと同時に、羽の力を強めて初めて空へ飛んでいくことができるのです。この過程を知らないその優しい人の一時の好意によって、蝶は永遠に家へ帰るチャンスを失いました。
生命が成長していく過程で必死の頑張りは必要です。一生、挫折がなく、順風満帆の人生には自我を練磨し、大きく成長していくチャンスはありません。苦難とそれを絶えず突破していく努力は造物主の完ぺきな計画の一部です。同様に、どの運動選手もくる日もくる日も苦しい訓練を積み重ねていかなければなりません。終点まで担いでもらうチャンピオンはいません。
修煉者の私たちは異なるところから来ており、異なる誓いを立て、生々世々に異なる縁を結び、円満成就までの帰り道もそれぞれ違います。修煉において模範はなく、同修間の交流も共に精進していく過程に過ぎません。特に魔難の中にいる同修はなお法を師とし、法を学んで人を学ばず、真に内に向けて探し、法理に則って自分の問題を探し出し、同修に対して依頼心を持つべきではないと思います。周辺にいる同修も自分に取り除くべき心があるかどうかを内に向けて探し、魔難に遭っている同修を叱責したり、または頼まれれば何でも承諾したりしてはいけないと思います。それらの魔難はその同修が精進していく階段であり、本人が登り切って初めて真の向上が得られます。
試験終了直前の知らせのベルが鳴った時、焦り出したり、周囲を見回したりする人がいます。その行為はまったく無意味で、最後の貴重な時間まで無駄にしてしまいます。法を正す進展が最後の段階に差しかかった今、自分の修煉過程を振り返り、やはり焦りを感じる人がいます。特に師父が『二〇一五年米国西部法会での説法』の中で何度も「どうすれば良いのですか?」とおっしゃったのを見て、さらに慌てました。自分の元の世界に戻れなければどうしましょう? 身近な同修は次元が落ちたのですが、どうしましょう? 多くの縁のある衆生はまだ救われていませんが、どうしましょう?
最後になればなるほど心を静め、円満成就に執着せず、着実に「真・善・忍」に則って行い、師父と大法を信じ、衆生の皆さんに救われるチャンスがあることを願うべきだと思います。宇宙全体の法が正されている中で、例え衆生が一時に大法の実態が理解できていなくても、大法弟子である私たちは一体となって、それぞれの果たすべき役割をきちんと果たせば、衆生は必ずどこかの段階で真相を知り、救われると思います。
蝶は蛹から飛び出し、美しい空で羽ばたくことができるのは、蝶自身が最後まで諦めないからです。修煉者の私たちは自分自身を諦めなければ師父もきっと私たちを見捨てられず、衆生もそれぞれの分かっている一面の作用でいずれは救われると思います。
私たちがすべきことは、師父を信じ大法を信じ、向上するチャンスの一つずつを大切にし、穏やかな心ですべきことを成し遂げていくことです。私たちはきっと衆生を携えて師父についていき、先史の誓いを果たし、元の家に戻ることができると思います。
師父に感謝します! 同修の皆さんに感謝します! 合掌!