はっと目覚めて悟った
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年11月2日】今朝、目覚めて、私は今まで自分を悩ませて来た問題がどこにあるのか分かり、はっと悟りました。それは私の中に長期にわたって存在していた懈怠(けたい)であり、感覚がなく、だらけた状態に衝撃を受けました。私は、以前から、多かれ少なかれ自分の問題を意識していました。しかし、安逸に執着し、気楽な生活を求めたい気持ちが自分を泥沼に陥らせ、修煉の道で、ずっと私をためらわせていました。私は一つの夢を見ました。夢の中で、私は大きな山を登っていました。その山はあまりにも険しく、登るのがとても困難で、毎回苦労して努力しても、結局落ちてしまい、最後になっても登ることが出来ませんでした。

 修煉を始めて間もない頃の事でした。当時まだ中学生だった私は、ある日、いつも乗っていた自転車をなくしました。私は、家に帰ってから、親に「あなたはそそっかしく不注意だ」と怒られました。しかし、私は全く親の言うとおりだとは思いませんでした。「私はすでに法も得たので、自転車を一台なくしたことは大したことではない。私は気にしない。私はどんな事も放下でき、何ものも私の心を動かすことはできない」と思っていました。

 その後、社会人になり、最初の頃は、私はまだ雄大な志を持っていて、常人の中で素晴らしい業績を作りたいと思っていましたしかし幾度となく挫折と失敗を経験する中で、私の常人の名や利に対する執着心も次第に薄くなりました。

 10数年の修煉の中で、生活の不満や様々な挫折と失敗により、私の雄大な志はすり減ってしまいました。私は修煉者としてやるべき三つのことを真剣に行って来ませんでした。そのため、常人の仕事も生活の状態も次第に消極的でだらけたものになりました。その頃、私は明慧ネットに投稿されていたある交流文を読みました。その文章の大まかな内容は「その投稿者は常人社会での仕事がうまくいっておらず、収入も高くなかった。そして家族の不平不満に対し、彼はいつも心の中で『私はすでに法を得たので、なるようになる』と思っていた」というものでした。長い間、私もその投稿者と同じ状態で同じ気持ちでした。親の愚痴に対し、私はいつも「そんなことは私にとって何でもない、もうすでに私は法を得ているのだから」と思い、同級生や友達が成功したり裕福な生活をしていることに対しても、同じく「そんな事、気にしない。私はすでに法を得ており、常人の成功や裕福な生活には興味はない。私は嫉妬にかられたり羨ましく思わないし、努力して手に入れようと思わない」と思っていました。

 私はよく夢を見ました。夢の中で、私はいつも人に追われ、あたふたと逃げ、とても辛そうでした。その後、私は悟りました。私は、困難や面倒を恐れ、努力しても報われないことを恐れている人心を、法を盾にして隠し、また、常人の中でしっかりとやらなければならないことから逃げ、法の加護の中で、安逸や気楽を求めていたことに気が付きました。

 師父は「大法が自らの科学の観念と符合していると思う人がいれば、自らの人としての道理に符合していると思う人もいます。自らの政治に対する不満と符合していると思う人もいれば、大法が人類の腐敗堕落した道徳を救えると思う人もいて、大法が自分の病気を治すことができると思う人もいる、大法と師父の品行が正しいと思う人もいる、等々です。人間が世間においてこれらの心を抱いて、素晴らしい追求と願望にあこがれるのは間違いではありませんが、修煉者としては、それではいけません。ですから、あなたがこのような考えの働きかけのもとで大法の門に入ることはかまいませんが、修煉していく過程で自らを修煉者と見なし、今後、本を読み、法を学んで精進していくうちに、自分が入門した時、どういう考えで大法に入ったのかを、はっきりと見分けなければなりません。修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです。大法が中国で受けた邪悪な試練の中で淘汰されたのは、すべてこの執着心が取り除かれていない人です。同時に、大法にマイナスの影響を与えました」[1]と説かれました。

 振り返って考えると、私は修煉を始めるまで、ずっと人生について考えていました。私は、人間には、生きる真の意味と目的がきっとあるはずだと思っていました。修煉を始めた当初、私の心はぱっと開きました。師父は私に人生の本当の意味を明確に教えてくださいました。私は当初、自分はあまり求める心を持っていないと思い込んでいました。なるほど、私は自分に潜んでいる安逸心や気楽を求める人心に大法が符合していると思っていたのです。私は、生活と修煉の中に現れてくる、乗り越えなければならない関門から逃げていたのに、自分は世間の名や利を求めることがないと思っており、甚だしきに至っては、自分がよく修めていると勘違いしていました。これはまるで紅塵(俗世の煩わしさ)を看破して、寺院に出家した修行僧と同じで、結局のところ、人心を本当に放下出来ておらず、多くの察知できない人心を隠したまま、ある時期になると、やはり顕れてきて、最後に「身を仏門に置いても、一生を無駄にしてしまう」ことではありませんか。

 何度も『最後になればなるほど、精進すべき』を暗唱しましたが、自分の状態はあまり大きく変わりませんでした。法を正す進展の勢いの下、私は安逸心と逃避する心から、多くの大法を実証する機会を失い、人々を救い済度する機縁を失いました。また、やるべきことをしっかりやらず、いい加減にごまかして、真剣にどうすればいいかを考えていませんでした。

 ある夜、横断幕を掛け、電信柱に「法輪大法は素晴らしい」、「真善忍は素晴らしい」と書きました。その後、夢の中で、麦畑を通りかかった私は、そこの電信柱に書かれた「法輪大法は素晴らしい」の文字がきらきらと光っているのを見ました。それは師父が私を励ましてくださっていたのです。

 私は、同じ状態にいる同修と励まし合いたいと思い、この文章を書きました。もう前進しないことをやめ、ためらうことをやめ、障碍を突破して、なすべき三つのことをしっかり行うよう頑張りたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨(二)』「圓満成就に向かって」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/19/299124.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/10/29/146600.html)
 
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