思想業力についての若干の認識
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年11月7日】私が個人的に思うには、中国大陸では客観的に見て、現在の迫害環境の制限を受け、一部の学習者は(私を含め)正常な交流の環境がなく、毎日、明慧ネットの文章を読むことが出来ず、向上が遅れ、長い間ある状態に留まっています。彼らはこの「状態」に慣れて、それが正常だと思いがちですが、この種の「正常」は実は深刻な不正常です。そこから突破できなければ、この「難」はずっと続きます。例えば、練功は真の煉功ではありません。

 煉功の時、心が静まらず、(最初から最後までの全過程において)、時々師父の声や音楽が聞こえなくなります。上の空になって、他のことを考えたりして、音楽が聞こえなくなることがあります。

 去年、私は時々腎臓の痛みを感じ、病院の検査では脂肪瘤という結果が出ました。その後、私は時々腎臓の部位に病気があることを考え、この状態を否定してみたのですが、効果がありませんでした。今年の定期健診の前、静功を煉る時、私はよく腎臓のことを思い出し、もしかして大法に泥を塗るのでは、本当に病気になったのではと考えていました。健診の前夜、その考えが非常に強くなって、仕方なく、私は最後の手段で、終始、集中して音楽を聴くことで別の意識を排斥し、煉功の音楽が聞こえるようにし、痛みに耐えてみました。すると静功を煉り終えた後、思想が非常に楽になり(その考えが消え、実際のところ、その悪い思想を排斥したから、体に変化が起きました)、頭も上げられるようになりました(わざとではないのですが、私は以前、いつも俯いて歩き、頭を意識して上げなければいけませんでした)。翌日の検査では、何の腫瘍も見つかりませんでした。

 その後、私はこれが「安逸の状態」だと認識しました。これは私が煉功の時、意識的に他の考えを排斥し、音楽に集中し続けなかった結果です。私は、煉功の音楽は師父による慈悲だと思っています。なぜなら現代社会において、人々は容易に入静出来ないことを師父は考慮されて、この煉功の音楽を用意され、この音楽をもって皆さんの向上を図ろうとされているからです。私達は思想業力の問題の厳重性を十分に受け止めるべきだと思います。この種の思想業力はまるで山のように大きく、色欲心や名利心などの各方面において見られ、排斥できません。あるいは、この思想業力により、私達の思想は、良くない方向へ傾きます。師父は『明智』という経文の中で、「思想が過激になること」について言及されています。言葉使いが乱暴で、怒りっぽく、情緒がコントロールできなかったり、思想の負担が重く、心理的プレッシャーを大きいと感じ、憂鬱など情緒が落ち込むという事などは、私が思うには、それは全部思想業力による問題です。そして長い間この状態に留まると、その状態から生まれ育ったものは非常に強く、そして私達は、その状態に慣れやすいのです。諺に、「何事も努力を重ねれば成し遂げられる」とありますが、それにならってこの思想業力の大きな山を無くしていきましょう。

 以前自分がずっと気にしていた事や、いまだ放下していないものは煉功の時に必ず出てきます。その妨害によって煉功の際に入静できず、身体の転化ができず、向上も得られません。一つの方法は、煉功の過程でずっと音楽に集中し、それによって妨害を排斥し、自分の主意識も強めることができます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/27/299442.html)
 
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