文/海外の大法弟子
【明慧日本2014年10月29日】先日、私は体での業を消去する妨害を受け、その過程で少しの悟りを得たので、同修の皆さんと分かち合いたいと思います。
魔難が来た時、私は眩暈がひどく、視力が低下し、四肢に力がなく、冷や汗をかき、他人の声は遠くから伝わってきたように聞こえ、歩く時もふらふらしました。修煉していない家族に知られないように、私はご飯を食べるとき以外、できるだけ室内に居て学法し、毎日の出勤の際も、他人に異常を気づかれないように、最大の意志力で自分をコントロールしました。その数日、私は疲れと眠気を感じながらも、頭痛で眠れず、深夜まで学法をし続けました。
最初、多くの人心が出てきました。例えば、これはもしかして何かの「病気」の症状ではないか、食べ物に注意しなければならず、何かを少なめに食べて、何かを食べてはいけない、食べればどうなるか等々を考えていました。しかし念を変え、この全ては良いことではありませんか? 巨大な業が滅されていて、私はこれを良いことだと考えるべきだと思いました。これが病気でなければ、私は何故常人の病気に対する観念をもって物事を考えるのですか? 他空間にいる神々は私の考えの一つ、念の一つを見つめており、潜在意識の中にある考えも逃れることは出来ません。
私たちが修煉の各次元において消去すべき業の量は決まっています。何かを食べたり、何かを食べなかったり、あるいは食べる量によって滅される業の量も変わることはありません。逆に、病気という観念自体、取り除くべき心の一つです。このような心を持てば、関も難しくなります。何故なら、旧勢力は私たちがこの心を取り除くまで、難を大きく、長くさせてしまうからです。神は病気という人間が持つ概念を持つはずがありません。常人は苦労を少なめに、あるいは苦労しないように考えますが、修煉者は業を滅せば滅するほど良いのではありませんか?(わざわざ苦労を買ってするのではありません)病気という観念を放下せず、何とかなるだろうという心理を持ってはいけません。真に常人の観念と病気という概念を放下し、法に沿って物事を考え、本当に神のようにしなければなりません。
また、私には、長い間形成されたマイナス思考の習慣があります。何かの事に遭遇すれば、万が一のことを考えてしまいます。例えば、修煉していない家族にバレて、病院に行かされたらどうしよう? 万が一、この関をきちんと乗り越えられなかったら、大法に悪い影響を及ぼしてしまうのではないかを考えます。この時、何故か、私は常人の会社から広告メールを良く受け取ります。題目も、「失敗は一つの選択肢ではない(Failure is not an option)」というものでした。私はこれが師父による諭しだと知っています。師父と法を信じれば、必ず乗り越えられます。ほかを考える必要もありません。師父は今まで、常人の状態に符合するために病院に行きなさいとおっしゃったことは一回もありませんでした。それなら、私は何故それを考えるのですか。
私は内に向けて探し、自分の漏れを探しました。まずは惰性と安逸心です。朝、私はよく起きられず、旧勢力は私の四肢を益々重くさせます。色欲心はほぼ取り除いたので、あまり問題にはなりません。私のもう一つの大きな執着は、母親(同修)がこの世を去った後、私は自分の情もほぼ取り除いたと思いますが、しかし、以前よくできなかったことに対し遺憾の念をずっと抱いていました。そして私は毎月、大法のプロジェクトに金銭を寄付して、母親の代わりに引き続き衆生を救い、彼女の威徳にしようと思いました。今まで私はこれが間違いだと思ったことがありませんでした。今になって突然分かったのですが、私はこの情を掴み、大法の事と混同し、「高尚」という理由でこの心を隠していました。修煉と衆生を救うという厳粛なことに、家族の情が混ざってはいけませんし、それに、威徳と功を任意に誰かにあげることもできません。宇宙の法理には一切の按排があります。寄付金は衆生を救うために出すべきで、誰かに威徳をあげるために出すものだと考えてはいけません。
これが分かったとき、ちょうど私は勤務中で、非常に大きな業力の塊が寄せてきたような感じで、眩暈で倒れそうになり、心臓もすごい負担を感じました。しかし、私は一念だけを強く持っていました。絶対に倒れてはなりません。暫くしてから、その大きな塊がなくなったように体が軽く感じ、私は師父がその巨大な業力を消して下さったと分かりました。自分の分かる一面が見えた故か、私は心底から泣き出して、師父がして下さったことに感謝しました。
その後、関の大きな部分を乗り越えたのですが、体は依然として弱く、四肢に力が入りません。その後の二日間、私は本来チラシを配る予定でした。重い鞄を背負って数時間も歩かなければならず、しかも自分一人で決めたことで、やってもやらなくても誰も知らないので、行くか止めるかを随分悩みました。今の自分の体力では行けるのでしょうか? しかし念を変え、計画したことは実行すべきであり、それにチラシの期限もあって、遅く配るとあまり意味がなくなります。こうして二日間、私は頑張りました。途中、私は絶えず法を暗記し、自分の正念を強め、自分の一切を師父に委ねました。三日目の朝、四肢の無力感が消えました。
今回の魔難を通じて、私は苦労を舐められない自分、そして意志力があまりにも弱い自分がはっきり見えました。苦痛の中で、私は諦めようとも思いました。そして魔難に遭った当初、病気の念も抱いたことを恥ずかしく思います。常人と神は一念で変わり、普段の着実な修煉と、師と法を信じる度合いによって全てが決まります。今後、本当に時々刻々、自分に金剛の意志があるように努めるべきで、師父は『洪吟二』『洪吟三』の中で金剛の意志について再三言及されていました。やるべきことは間違いなく実行し、躊躇する必要はありません。そして大変な苦労を舐める決意も必要です。修煉は非常に厳粛なことです。天上の神々がずっと私を見ていて、彼らの一員になろうとする私は基準に達していかなくてはなりません。
個人的な体得ですが、不適切な部分があればご指摘をお願いします。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/10/22/146496.html)