文/中国の大法弟子 洪願
【明慧日本2014年10月25日】本文は作者が自分の状態の中で見たもので、あくまでも同修のご参考まで。法を師としてください。(編集部より)
発言時の内容が不一致、信用を守らず旧勢力に迫害される
かつてこのような同修に出会いました。体が麻痺して不自由になり、たくさんの人が手伝って正念を発したのですが、効果が見えず、動揺し始める人もいました。原因を探してみると、その人は数十年前、出任せに約束をし、その後実現しなかったため、今とても低いものが債務の取り立てに来て、皆で発正念をしても取り除くことができません。この同修は学法する時、たまにこの約束を思い出すのですが、内に向けて問題を解決しなければならないと悟らず、気にしませんでした。私はこの事を指摘して法に基づいて交流しました。彼が修煉する前に約束をしたとしても、修煉後に間違ったとわかれば、解決しなければなりません。それから彼は分かって、解決し終えると、体も自然に治りました。
このような病業は、問題を解決しない限り、ますます重くなります。
師父は『轉法輪』の中で「わたしは言いたくない話は無理に言わない人間ですが、わたしが口にすることは常に本当の話でなければなりません」と説かれました。
この段の法の表面の意味は誰でも分かっていると思います。この理がすべてを制御しており、常人を制御し、「約束を守る君子」を制御し、「約束を守れない人」をも制御し、修煉者はなおさら制御されています。しかし、一部の同修は習慣的に出任せを言い、目的を達するため嘘までつき、想像したことでも事実のように話し、軽く約束することで、同修に損失をもたらしてしまい、かえって責任を人に転嫁し、責任を負わない人も、認めない人もいます。このような人は「出任せを言ったのに、信じてしまうほうが悪い」といつも思っているようです。しかし、出た損失はどうするのですか?
師父は『精進要旨三』で「一人の生命が何を行なったにせよ、それに対して責任を負わなければなりません。これは宇宙の理です」と説かれました。
私から見ると、言葉に出すのは一種の行為であり、物質的な存在なのです。もちろん言い間違いだったとか、誤って行った場合は、真心から改めればそれでよいのですが、しかし、公に謝って、もたらした損失を補わなければならず、これもこの世間の理です。ある同修が間違ったら改めればいいということを言い訳に、約束したことを気にせず、一方的に変えて、他人に損失をもたらしたにもかかわらず、弁解して責任から逃れ、甚だしい場合他人に転嫁しています。一部の同修の病業の原因はここにあります。上記に話した同修の守れなかった約束は、そんなに厳重な問題ではなかったにもかかわらず、体が不自由になるまで至りました。
精進しているように見えて、実は緩んでいる
師父は『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」の中で、「しかし、望みのない寂しさの中で黙々と修煉し、希望が見えず、これは最も難しいことです。いかなる修煉もこのような試練があり、このような道を歩むのです。ですから、終始一貫して、絶えず精進することこそ本当の精進なのです。このように話していますが、行うことは本当に難しいのです。ですから、初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得ることができると言われています」と説かれました。
多くの人は、時間が経つに連れ、だんだん緩んでしまいます。一部の人は長期にわたり煉功せず、たまに煉功する人も、本体がよく転化できず、病業が現われてきたら耐えることができず、長く延びてしまいます。一部の同修は真相伝えに忙しく時間がないのですが、一部の人は怠けて緩んでいるため、この緩みが各方面に溢れてしまい、特に心性において、常人と同様になり、結局旧勢力に病業の形でひどく迫害されてしまいます。
一度、外地である同修に遭遇した時、とても重い病業でベッドに寝たきりでした。皆が正念を発しても重くなる一方でした。皆の評判では、この人は20年くらい修煉してきて、とても精進しており、学法と三つのことを行う時間をもっと作りたいため、高い賃金の仕事を放棄して、暇で低収入の仕事に就いたそうです。行って見ると、彼女はまるで常人のようで緩んでいて、口では時間を大事にしていると言うものの、実際には時間があれば遊んでおり、ネットで夜中まで娯楽番組を見たり、映画を見たりして、学法や煉功をしていません。本人はおしゃべりの達人で口がうまく、同修の中でとても積極的に振る舞っていても、実際のところは内に向けて探さず、自分を変えようとしないばかりでなく、他人とのトラブルが多く、常人の中で意気が高く、要求も高く、目標に達成できなかったらすぐに人のせいにして、文句を言います。溜まった怨みの物質があまり多く、トラブルも解決できず、生活に困難をもたらしても、また覆い隠しています。普段大法を実証する仕事をやっても、同修が分けてくれた仕事を仕方なく行っただけで、心を純正にできず、怨みを帯びて作った真相資料を常人に渡しても、常人は見ようとせず、また真相資料の評判に悪い影響をもたらしてしまいました。彼女の修煉は完全に緩んでしまい、初期の頃の精進の中で絶えず自我を放下したときの軽やかさがなくなり、絶えず内に向けて探すことによってトラブルを解消し関を乗り越えることができず、更に高い法理を悟る喜びもなくなり、逆に常人の中で楽しみを探し、刺激を探していました。
彼女の問題はあまりに大きいのですが、まだ大法から離れていないので、なぜ夜中までネットで遊んで、長期にわたり学法と煉功をしないのかと聞きました。彼女はびっくりして、このようになるとは思わなかったようで、私の再三の質問でやっと認めました。彼女に最初からやり直して、自分を新しい学習者と見なし、最初から精進して、学法し、煉功して、苦をもって楽とし、少しずつ少しずつやっていけば、病業を乗り越えられるはずで、そうでなければ、すぐに病院へ行きなさいと言いました。同修も新しい学習者のように彼女を助け、学法と内に向けて探すことを重点にするしかないのです。しかし、魔の妨害を突破して戻れるかどうかは本人次第なのです。
これは典型的な例ですが、病業がこれほど重くなくても、他にも多かれ少なかれこのような状況にいる人もいます。
(続く)