漸悟の中で見た長期にわたる病業(十二)
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文/中国の大法弟子 洪願

 【明慧日本2014年10月31日】本文は作者が自分の状態の中で見たもので、あくまでも同修のご参考まで。法を師としてください。(編集部より)

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 十八、苦しみに耐える意味を理解できず、忍耐力不足で、難を乗り越えられず、大きな難を積み上げた

 大きな苦しみに耐えたことがなければ、苦しみに耐える力も弱いのです。このような同修は大法を修煉する中の苦を嘗めるという意味を深く理解することができず、「苦をもって楽とする」(『精進要旨』「境界」)の境地に達しがたいのです。師父が『轉法輪』の中で説かれた「心性は、徳(徳は一種の物質)をはじめとして、忍耐すること、悟ること、捨てること、常人の中のさまざまな欲望や執着心を捨てること、さらに苦しみに耐えることなどなど、多くのものを含んでいます」の部分を読んでも、読み通すだけなので、苦しみに耐えることも心性の一つ重要な部分だということを、すぐに忘れてしまいます。

 同じぐらいの病業に遭遇しても、ほかの同修はあまり気にせず、いつも通りに学法煉功して、2、3日で乗り越えますが、すぐ忘れてしまう同修の場合、ベッドに横になり、説法の録音を聞くだけで本を読むこともできないのです。しかも、考えがつい別のことに行き、10日から半月かかってしまい、結局苦しみに耐えたので、病業は消えましたが、思想が向上しておらず、苦をもって楽とする境地には遠いのです。苦しみに遭うと怨みが生じ、苦しみに耐える中で威徳を積むことを妨害や迫害だと見なしています。心性が向上していないため、次にまた同じような魔難がやってくるので、積めば積むほど大きくなり、最後に小さい関も大きくなってしまいました。

 苦しみに耐えて関を乗り越えるだけで、心性を向上させないやり方は、以前の世間小道のようで、人心を真っ直ぐに指す大法の修煉ではありません。しかし、この苦しみに耐えられない心は、世間小道にも及ばず、法への理解も深められないので、長期に感性的な認識に止まっています。

 このような苦しみに耐えられない人(常人も同じ)は、自分の子供を可愛がって悪くしてしまい、甚だしきに至っては子供弟子を台無しにしてしまいます。

 十九、子供を限りなく可愛がる、中高年の同修

 最近ある中年の修煉者が病業で亡くなりましたが、師父は彼女を迫害する旧勢力の口実を示されました。中の一つに思いもかけない理由がありました。「限りなく可愛がることによって大法弟子を台無しにした」ということでした。

 同修が彼女の状況を詳しく話し、私は聞きながら調べてみました。彼女の問題はとても代表的で、しかも、とても普遍的に存在している現象なので、深く交流したいと思いますが、ここではまず簡単に話します。

 彼女の娘の根基はとてもよく、法を得て果位を実証するためにこの世に下りてきました。典型的な行動は、まだとても小さい頃、学業を放棄して、お母さんに連れられて天安門へ大法を実証しに行きました。彼女も大きな苦しみを経験しましたが、家庭の経済は裕福ではありません。できる限り娘が苦しみを嘗めないように、師父が『轉法輪』の中で説かれた「親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを優先に考えるならば」という意味を、子供に苦を嘗めさせない、損をさせないことと理解して、ただ子供を大事にして、自分が節約して、子供の要求やほしがるものをできる限り与えて満足させ、辛い思いをさせないようにしました。基点は常人の最もよくない親馬鹿(常人にも子供を可愛がり過ぎると子を殺すという同じ言い方がある)になってしまい、高い次元から見れば良し悪しの区別がわからないのです。子供が『洪吟』の中の「苦を嘗めるをもって楽とす」を暗記しても、理解は口にだけ留まって、同化できませんでした。

 師父は『轉法輪』の中で「したいことを何でもするわけにはいかないのです」と説かれましたが、彼女が育てた子はしたいことは何でもしたいというわがままになり、道からますます離れていきました。小さいときはまだ『洪吟』を暗記したりできていましたが、食べ物や遊びに執着し、怠けて、遊び、大きくなってからはもう修煉できなくなりました。

 師父が『轉法輪』の中で「あまりにも苦しみを嘗めれば、あなたは修煉できなくなります」と説かれました。ほかの人にとってはなんでもない苦しみや業も、このような子には大きな苦であるため、どうやって修煉するのでしょうか? 彼女が病業で亡くなったことで、子供に心理的な障碍をもたらしてしまいました。今生で大法を修煉することはこの子にはあまりにも難しすぎます。これからの環境も今までのような圧力がないため、本当の家に帰る条件はほぼなくなりました。こんな大根基の覚者が、このように台無しにされ常人の中に陥ってしまうことは、罪業が大きくないですか? 実は同修を台無しにしたことと同じ罪になります。ただ「善」を用いただけですが、しかし、この「善」は、高い境地から見ると善であり得るでしょうか?

 かつてとても精進した子供弟子なのに、大きくなったら精進しなくなり、修しているような修していないような、甚だしきに至っては修煉しなくなり、同修たちの常人の観念に汚染されてしまいました。経済力が普通の同修より少ないのですが、裕福な同修のほうが比較的普通に存在しています。

 多数の中高年の同修は子供を限りなく可愛がっていますが、彼女たちの法への理解は常人に留まっているだけでなく、はかる基準も常人の次元に留まっています。このような人の学法と精進は形式に留まり、法理に基づいて、理性的に向上することができず、自分の病業も繰り返してしています。子供弟子をよく育てなかった罪に加えて、病業が本当に乗り越えにくいのです。根本からこれらの常人の観念を変えるべきで、成すことこそ修なのです。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/23/299247.html)
 
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