再び修煉の厳粛さを体験する
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文/中国大陸遼寧省の大法弟子 

 【明慧日本2014年10月22日】1カ月前、私のパソコンが突然起動できなくなりました。私は自分の操作不備によりパソコンのマザーボードを焼きついてしまったと思いました。翌日、私はパソコンを同修のところに持って行き、「多分マザーボードが焼きついてしまったと思います。確認してください」と言い残し、そこを去りました。日をあけてから、パソコンを取りに行くと、同修は「何の問題もありませんでした。正常に稼働しています」と言ってくれました。家に持ち帰って、電源を付けるとやはり正常に稼働しました。しかし、音が出なくなりました。いまだに音は出ません。私も他の人に修理を頼みませんでした。 

 このようなことが発生したので、私は自ずと自分に向けて探しました。修煉のなか、長期にわたり、放下できてないあまりにも多くの執着が見えてきました。一部は放下できてないというか、まったく気ままにさせていました。その一つとして、私は朝に部屋の掃除をする時、常にパソコンで常人の音楽を聞いていました。基本的にはクラシックな軽音楽でしたが、人間のものがいくら純粋だとしても情が含まれています。人にとっては、俗世の清らかな音楽は確かに情操を薫育することができ、心を浄化する効果がありますが、修煉者にとって、もし長い間故意か知らずかに関わらず耳に注ぎ込んだら、最終的にはまったく気づかないうちに人間の情の中に陥ってしまいます。どんな情であれ、それは私達が最終的に必要とするものでしょうか? 

 師父は「人間はまるで一つの容器のようなもので、何かを入れればそれになるのです」[1]と説かれました。今、この前の毎朝の「音楽の時間」は振り返ってみると、私はすでにその中に惑わされていて、常人の音楽に対してそれほど未練を持って、賛嘆していました。知らないうちにすでに自分の境地を低下させていました。 

 私は再度修煉の厳粛さを感じ取りました。大道無形だからと言って、それは勝手にしていいということではありません。常人のなかでのいかなる享楽も私達を堕落させ、知らないうちに私達の正念を弱くさせます。師父は「心を修め、欲を断ち、智慧を明らかにして惑わされないようにするのは、自らに対して責任を負うことです」[2]と説かれました。修煉のなかで小さなことに見えるものも、実は無茶をしてはいけません。自分に対して責任を取るとは口でいうだけで済むほど簡単なことではありません。  

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「法の中に溶け込む」 
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「堅定」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/20/299217.html)
 
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