安逸心を抱いたままでは本当の家に帰れない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年9月12日】世の人々は安逸を追求していますが、修煉者である私たちが目的としているのは、最後に得られる大いなる自在、人間社会で心と身体の苦痛を受けないことです。しかし、この大いなる自在を得るには、まず修煉の中で苦労を嘗めて精進し、他人に良いことをし、他人を思いやり、無私無我の境地に達して初めて解脱の目的を達成できます。

 人間が利己的になってから、本来の自由自在な家から徐々に離れてゆき、宇宙の正法の理と真逆な理念の中に迷い込み、本来の家の概念を失い、私たちは帰る道も忘れ、ここが家だと思い込むようになりました。もしここで安逸心を起こせば、それはまるで私たちの本来の家である、あの美しい世界に戻りたくないことになるのではありませんか?

 考えてみれば、安逸心は私たちを惑わし、ここから離れようとさせない魔ではありませんか? 人間が追求する安逸は物質的充実と心理的心地よさで、苦労からの回避です。根底には苦労や疲れを嫌がる心があります。安逸に暮らすことができる人は前世に沢山の福を積んだとよく言われますが、修煉者としては、この問題は逆に考えなければなりません。本当に師父について家に帰りたいのなら、この観念を必ず改めなければなりません。安逸や心地よさは修煉者の福ではなく、それは人間から脱皮することを邪魔する執着なのです。

 師父は『洪吟』の最初に、「苦其心志」を説かれました。「円満となって佛果を得る 苦を嘗めるのをもって楽とす 身を労するを苦と算せず 心を修するは最も過ぎ難し 関という関は全て闖えるべし いたる処すべて是魔 百の苦一斉に降る 其の如何に活くかを看る 世上の苦に堪え得れば 世を出ずれば是仏陀」

 修煉者は人間社会の安逸を求めれば、どのようにして佛の果位を得られるのでしょうか。

 修煉すれば輪廻から抜け出し、返本帰真できます。しかし、修煉の中で苦労を嘗めたくなく、負担すべきことを負担したくなければ、どのようにして私たちは業力を滅しますか? 師父はこう仰いました。「ところが炊事係の小坊主が、必ずしも「小根基」の人とは限りません。小坊主は苦しみに耐えれば耐えるほど功を開きやすいのですが、大和尚は楽をすればするほど功を開きにくくなります。ここに業力転化の問題があります。小坊主はつね日ごろ苦労しているので、業を滅することが速いし、悟りを開くもの速く、もしかするとある日彼は突然功を開くかも知れません」[2] 。修煉者であれば、楽しようとする大和尚になってはならず、炊事係の小坊主になるべきです。

 安逸心が膨張すれば、依頼心や怠惰、虚栄心、傲慢、顕示心、嫉妬心、歓喜心、他人から賞賛を受けることを好む心など、他の執着心も容易に生まれます。それらの心の一つずつが縄のように、しっかりとあなたを人間社会に縛り付け固定させます。考えて見れば、これらの心はどれだけ恐ろしいものでしょう! 私たちの言動はそれらの執着心に操られてはいけません。これらの汚い心を抱えたままでは、清くて神聖な家には帰れません。

 未だ安逸心を抱いている同修たちが出来るだけ早くその心を断ち切るよう願っています。純粋な心で三つのことをしっかりと行わなければなりません。安逸を貪って億万年の間待ち望んでいたことを逃せば、後悔してもしきれません。

 私の認識に限りがありますので、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「苦其心志」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/4/4/307039.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/4/16/149750.html)
 
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