大きいことも小さいことも心を修めること
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文/内モンゴルの大法弟子 心蓮

 【明慧日本2015年10月15日】修煉の中で、わたしたちは往々にして心を揺さぶられるような大きな事を重視し、これが乗り越えるべき関だと思っています。この関をしっかり乗り越えることで心性の向上と昇華を得てきました。しかし、しばしば小さな関を軽視して、これらのことはどうでもよいと思ってしまい、結果的にこれらが累積して乗り越え難い大きな大難になります。小さな事は修煉者の心性にかかわりがあります。多くの人々は一部の小さなことから、修煉者がどんな人か、法輪大法がどんなものかを評価するのです。このような面から考えて、小さな事はなおさら衆生を救い済度する効果にかかわり、修煉者が人を救い済度する誓約と神聖な使命を成し遂げられるか否かにもかかわります。

  一、小さな事も心性の高低にかかわる

 師父は以前わたしたちに「大法弟子がこの環境の中で形成した高い境地での行為は、その一言一行を含めて、人に自分の足りないところを認識させ、ほかの人との差を気づかせ、人を感動させ、人間の行為を熔煉させ、人間を早く向上させることができます」[1]と明確に戒められました。法の中から私は「修煉者の一思一念、一言一行は自身の向上に非常に重要だ」と悟りました。

 師父はまた「法の中で修煉しなければ、真に法を認識することができません。本当に法を身につけてはじめて、正しく道を歩むことができ、この生命は保証されます」[2]とおっしゃいました。では、どのように法の中で修めるのでしょうか? 一つの例を挙げます。同修の甲さんは5階に住んでいます。ある日、彼女は窓を開け、不要なビニール袋を窓から捨てようと思いました。ビニール袋は風にたなびいていました。ちょうど手を伸ばして投げようとしたときに、突然師父のいわれた「いくら小さいことであっても、基準に達することができなければそれでもいけません」[3]を思い出しました。彼女は思わず全身が震え、すぐに自分が間違っていると意識して、このビニール袋をごみ箱に入れました。事後、彼女は「私はどうして外へ投げようとしたのでしょう? 自分の都合を優先し、上の階から階下へ持っていかなくてもすむと思ったのです。これは私の自分の勝手さを表したものではありませんか。もしも外へ投げてしまったら、大通りを掃除する人に手間をかけます。皆がこのように外へ投げたら、町の環境がたいへん悪くなります。そして、わたしのこの不当な行為は常人となんの区別もなく、常人の中の良い人にさえ及ばない」と考えました。甲さんは満天の空の星はすべて神仏の目であり、神佛が自分を見て笑っていると感じました。甲さんは師父の法理の「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行い、何かを口にするときにも、もかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変わらないようにするために考えなければならないのです!」[4]を思い出しました。

 大法弟子の一思一念、一言一行は常人を超えなければなりません。さもないと、常人との区別がなにもありません。このような事は小さなことですが、反映する問題はとても大きいのです。修煉者は人間の行為、観念を変えなければ、修煉しているとは言えず、その修煉結果も無駄に終わります。

 二、小さな事も人の救い済度に大いにかかわる

 きょう、師父の経文『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』を勉強しました。師父は「大法弟子にとって、皆さんの修煉は最も重要です。なぜなら、あなたがしっかり修めていなけ れば、行なおうとすることを完成することができず、人を救う力もそれほど大きくないからです。修煉の出来がさらに劣っていると、問題を見る時、考える時に 常人の頭で、常人の考え方を用いてしまい、それならさらに悪くなります。ですから、皆さんはくれぐれも怠ってはならず、おろそかにしてはいけません」[5]とおっしゃいました。大法の法理は私に多くの考えと悟りをもたらしました。法を正す時期の修煉者は師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する神聖な使命を担っています。わたしたちは自分の修煉がよくなければ「人を救い済度する」善の心と強い正念がなく、人を救う効果も願い通りになりません。また、常人はわたしたちの正しくない行為を見て、心からあなたを認めず、あなたの真相伝えをどうして受け入れるでしょうか。

 師父は説法の中でわたしたちに「社会と常人の中にある自分の姿をも考慮しなければなりません。大法弟子はどこにおいても良い人なので、常人社会、職場、家庭、社会 の各方面のお付き合いの中で、人々に大法弟子の正しい姿を残さなければなりません。条件が限られているため、何かをするときにとても難しく厳しいのです。 しかし、こういう状況であっても、法を正す道を正しく行わなければならず、ずれてはいけません。正しく歩みたければ、ご存知のように、正しい道は一本しか なく、この道から一歩でも踏み外したら、ずれてしまいます。ずれてしまってはいけないので、私たちが歩んでいるこの道はそれほど広くないように感じます。 気ままに行動し、やりたいようにやってしまえば、それはいけません。このようにしてしまうと、法が正しくならないのです。皆さんは法を実証する道を正しく 歩むべきです。一歩一歩、一つ一つの出来事、大法弟子の言動も含めて、社会の各方面での現れを正しくしなければなりません」[6]と戒められました。

考えてみれば、わたしたちには毎日行っている正しくない小さな事がどれぐらいあるでしょうか。衆生はこれらの行いを見て、良い評価や良い印象を受けるでしょうか。

 師父の法理は、わたしたちの心の修煉で修煉の指標です。わたしたちは大法の法理に従わなければならず、自分の一思一念をしっかり修め、自分の一言一行を厳しく律して、はじめて法を正す時期の修煉者としての神聖な使命を担うことができ、名実ともに修煉者になるのです。

 個人の認識に限りがあり、妥当ではないところがあれば、同修の慈悲深い指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「環境」
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
 [4] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [5] 李洪志師父の経文:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [5] 李洪志師父の経文:『各地での説法六』「二〇〇四年復活祭ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/9/29/316771.html)
 
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