学法を通じて:認識するだけでなく、行動に移すこと
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年1月31日】先日、内に向けて執着心を探したとき、ある問題で執着心を見つけ出すと、それでよしとして、認識することだけに力を入れて、実際の行動に移していないと気づきました。それからはこの問題を重視して、認識するだけでなく、行動すると、しばらくして効果が現れました。

 認識したことを実際に行動するようになり、法の要求に達すると、ある次元を突破した状態になります。以前、同修といるとき、特に新しい同修と接するときは、法に基づいた認識や悟りを相手に伝えなければ低く評価されると思い込んでいました。実践について新たな認識を持ってから、同修が何を言っても心が動じなくなりました。しっかりと自分自身を見つめて内面を探ることができ、そして表面の仕事だけでなく、すべてを測る基準が大法だと理解することができました。法を勉強することで、各次元の法理や、自分自身の精進が見えました。師父と修煉に対する信念は実践から来ているのです。

 自分自身の執着心を探るとき、実際に法理で自分の言動に厳しく要求して、その執着心をただ見つけるだけでなく、その執着心を完全に取り除かなければならないということに気づきました。

 つまり、執着心が出てきた時は、それを消去して自らを修めなければなりません。たまに法を勉強している最中に、突然、自分がある執着心をどのように取り除いたのかを思い出すことがあります。その時に、今迄多くの苦を嘗めて一体何を手に入れたのか、何を修めたのか、そして師父が常にそばで見守ってくださっていたことが、すべてわかりました。しかし、自分の路は自分で歩まなければならず、自分でしっかり悟らなければなりません。真に悟ったときは、師父が説かれたように、その次元の法理を感じ取ることができ、心から師父と大法を信じられるようになります。

 衆生を済度することを第一としている中で、自分自身を浄化していきます。ある次元の基準に達すると、その次元の法理が現れます。法を勉強することと実践することは、どちらも重要なことです。法を勉強するときに実践の成果を感じることができます。この点を認識すると、修煉の道を歩くテンポが早くなります。つまり、常に法を基準に自分自身が実践しなければいけません。

 たとえば、昨日誰かの言動が自分を刺激したので、今日自分の執着心を見つけ出して、文章を書いて発表しました。今度は顕示心が現れてきて、この顕示心を取り除かなければなりません。(これはあくまでも例を挙げているだけで、誰かを指しているのではありません)これは間違いではありませんが、その場で足踏みしているだけであまり前へ進んでいません。執着心を見つけだし、文章を書いて発表したから、自分はしっかり修めているだろうと思っている同修もいます。しかし、これだけではまだ足りず、上の次元に達することはできません。何人かの同修はここで満足しているから、様々なトラブルに巻き込まれて、その次元の法理が見えず、師父と大法が信じられなくなっています。

 執着心をなくす鍵は、実際に行動に移すことが大切だと悟りました。見つけて終わりではなく、見つけてやっとスタートなのです。実際にできなければ執着心を見つけても、それはあくまでも形式だけで、実践したとは言えません。私は執着心を見つけだして、さらにそれを取り除くことを実践しなければならないと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/1/19/322413.html)
 
関連文章