自我を放下して、大法を第一義にする
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年3月25日】数日前、私が同修たちに学法を重視するように指摘すると否定され、その後、私の内心はずっと穏やかではありませんでした。原因を探してみると、自分が正しいと強調する執着心を見つけました。知らず知らずのうちに大法を第一義にするのではなく、徐々に自分を重んじていました。

 今朝『轉法輪』を開くと、「改良後の大乗佛教は、中国に入って、中国に定着しましたが、それが今中国に伝わっている佛教です。 実際それは釈迦牟尼時代の佛教とは似ても似つかないものとなっており、服装から、悟りに至る状態、修煉の過程まですべて変わっています。 原始佛教は釈迦牟尼だけを本尊として仕えていましたが、現在の佛教には多くの佛、大菩薩などが現われ、しかも、多佛信仰となっています。 多くの如来佛に対する信仰が現われましたので、一種の多佛の佛教となっています。 例えば、阿弥陀佛をはじめ、薬師佛、大日如来などなど、それに多くの大菩薩も現われています。 そうなると佛教は、釈迦牟尼が創立した当初の時とはまったく違うものとなってしまいました」[1]、「彼らは一部の理が分かり、常人の中の一部のことが間違っているのに気づき、どうやって良いことをするかを人々に教えたりもして、始めのころは他の宗教に反対するようなこともしませんでした。やがて人々が彼らを信奉するようになり、彼らの話に道理があると思い、ますます彼らを信じるようになって、結局人々は彼らを崇拝するようになり、宗教を崇拝しなくなってしまいました」[1]とあります。自分を強調する執着が発展し、膨張していけば、自分もいつか何かを創立し、自分の悟りを宣伝するようになるかもしれないと、意識してびっくりしました。そして、師父が説かれた、何かをするとき、「後世の人のために考えなければならない」という法について、少し分かるようになりました。

 昨日親戚から将来一緒に商売しようと誘われました。以前他の何人からも誘われたことがあります。誘いには乗らなかったのですが、誘われること自体は自分が信用されていることになりますので、いい事だと思ってきました。

 しかし、私を誘った親戚は大法を認めず、私個人の人柄だけを認めているのです。大法弟子として個人が認められても、何の意味がありますか? 何の意味もありません。その親戚は、私は元々良い人で、大法を修煉してから良い人になったと思っていません。これはつまり私は自分を実証してきたということです。今まで私はずっと他人に自分が良い人だと思われるようにやってきましたが、自分が認められれば、大法を認めるようになると思いましたが、実際は大法を実証していません。

 法を実証することができなければ、人に良い人だと思われる行いは、ただ名を求める行為にほかなりません。深く考えれば考えるほど、自分を強調し実証する危険とその恐ろしさを感じました。

 以上は私の教訓ですが、同修の参考になればと思って、この文を書きました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/3/19/325550.html )
 
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