【明慧日本2016年3月27日】去年の春、私は20年ぐらい修練している古い学習者と出会ました。長い間、自分は独自で煉功や学法をしているため、『轉法輪』を読む時、よく字を読み間違え、煉功する時には、動作も正しくないというのです。この古い同修に、速やかに間違いを正してもらうため、毎週一定の時間を取って、一緒に法を勉強したり、煉功しました。法を読む時、間違いを指摘し、正しく読むようにし、煉功する時も間違った動作を正してもらいました。このようにして1年が立つと、この同修は基本的に正しく法を読み、正しい動作で煉功もできるようになりました。
この同修は正法の進捗に追いつくため、自分をよく修煉し、人を救うために、いろいろな活動にも参加するようになりました。
その同修は私に感謝するため、毎回彼女の家に行った時、私にプレゼントをくれます。最初、私はあまり気にせず、断っていました。すると、プレゼントを私の家にまで持ってくるようになりました。そしてこのようなことが数回も続きました。
古い学習者を助けるのは当たり前のことだと思っています。そして、プレゼントをもらうことは良くないと思っています。このようなことをしないように、何度も交流しましたが、なかなかうまくわかってもらえません。最後には喧嘩のようになりました。
家に帰り、私は内に向けてよく反省してみました。なぜこの学習者はプレゼントをすることに執着しているのでしょうか? 私にも、必ず漏れがあり、修煉するべきところがあるはずです。心を落ち着かせて、この学習者と付き合った場面を一つづつ思い出して探してみました。探せば探すほど、自分の多くの間違いに気づきました。この1年間、ほぼ私を中心にして、何事も行っていました。相手に問題を探し、自分を強調していました。自分の顕示心や、自分の執着心、同修を見下している心、自我を証明する心、名を求める心などなどが現れていたことがわかりました。
問題が見つかって、再び一緒に法を勉強する際、私はこれまでの良くない自分の言動や態度、良くない心を、全て話しました。そして同修に謝りました。その同修もこのことについて思いや考えを改め、心性が共に上りました。良くない心を放下して、本当に慈悲心が生じたと感じました。本当に自我を放下すると、心が天地のように大きく大きく広がったと感じました。