世間体に執着することについて
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年4月12日】以前は世間体に執着することについて何とも思っていませんでした。しかし、それから長い間に様々なことを経験して、漸く考えすぎることが一種の執着でもあるということに気づいたのです。

 普段の生活の中で、至ることに自分の心配性が現れて、すべてのことを法で測ることをしませんでしたし、できませんでした。学校に通っている時は成績に執着し、毎日法を勉強しているものの、やはり習慣的に常人の考え方で様々なことや問題を考えてしまうため、結局は考えすぎていらない心配をする羽目になりました。また、会社に入ってから、具体的な仕事をしている時も、常人の理で問題を解決しようとしていました。

 修煉の中で、常人の思考方法や理を完全に取り除いて、すべての物ごとに関して、法に基づいて考えることはとても難しかったのでした。時には常人の観念をなくすことを、生命を捨てることのように感じ、肝心な時になると、どうしても常人の理を抱いてしまいました。

 私の普段の「忍」は、まさに師父が説かれたように「常人が世間体に執着する忍」なのでした。他人に罵られたりしたときは我慢しました。しかし、それは殴られるのを恐れているから我慢したのです。殴られたときも我慢しました。けれども、それはさらにひどいことをされるのを恐れていたからです。先生に侮辱されてもなお我慢しました。それは自分が先生を相手にできるほどの立場になく、いつか八つ当たりされるのではと心配していたからです。

 邪悪の根城に監禁されて様々な刑罰を受けましたが、やはり耐え抜きました。しかし、その時は次の刑罰の時にひどくされないか、今度こそ耐えられるかなどばかり心配して、法の事を全く思い出せませんでした。今では「なぜあの時は座禅して煉功しなかったのでしょう。そうすればきっとさらに大きな苦痛でも耐えられたのに」と後悔しています。少なくともそうしていれば、今迄の全ての出来事を、自分の忍耐力が足りなかったということにすることができたとさえ思っています。迫害であったことは理解していたものの、自分自身の執着心には全く気付いていませんでした。その上、大きな恐怖心におそわれていたため、法に基づいて迫害に抵抗することができず、ただただネガティブに我慢していました。その大きな原因がこの世間体に執着する心理であり、そのため堂々と真正面から正念で迫害を制止することができませんでした。

 修煉してからも法理がはっきりしておらず、元から我慢強いから他人より少しは修煉しやすいのではないだろうかと勘違いし、「真・善・忍」の本当の含意を全く理解していなかったのです。確かに私は「怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶこと」[注1]で我慢しているわけではないけれど、やはり世間体に執着しているがために、忍び耐えてきたことに変わりはありませんでした。

 私は小さいころから意気地がなく、いつもいじめられていたため臆病な性格になりました。もし道端でチンピラに絡まれて、その股下をくぐれと言われたら、私はきっと言われたとおりにくぐったでしょう。しかしそれは彼に殴られ、万が一に殴り殺されてしまうことを恐れていたからであり、大きな忍の心を持っていたというわけではありませんでした。むしろ、あまりにも世間体というものを重視していて、恐怖心があまりにも大きすぎたため、自分の臆病さと力無さに大きなコンプレックスを抱いていたのです。

 長い間修煉してきても、このような執着心を取り除かなければならないということに全く気が付きませんでした。しかし今、漸く気づいたときには心の底から修煉の厳しさを感じました。それはまさに生命を手放せるかどうかの覚悟なのです。このように感じてしまうのは執着心があるからで、自分自身の本当の気持ちではないと重々承知しています。そして、世間体に執着するこの心理もまた生命なのです。

 この執着心は様々な執着が合わさってできたものです。一つ一つを区別することはとても難しいけれど、どちらにしても悪いものに変わりはなく、取り除かなければなりません。しかしながら、言うのは容易いことですが、その時が来たら本当にこの執着心に気づけるかどうかが肝心な問題となります。そして精進しようとする気持ちと100パーセント大法を信じる心もまた問われます。この二つは普段生活の中で一つ一つ現れてくるものなので、気を付けなければすぐに常人の理念が湧き上がってきてしまいます。

 世間体に執着するこの心理も、また消える寸前で大きく膨らみ上がるので、普段から気を引き締めていなければ、この心理にはなかなか気づきにくいでしょう。法で物事を図るときのみ、この心理が急に飛び出してきて、無理にでも思考を合わさせようとしてきます。その時、固い信念で法を用いてトラブルを解決すると、それが怖がって震え上がります。しかし、覚えていてください。本当に震えているのはその執着心であり、あなた自身ではありません。執着心は人にしか影響を与えられないため、ほとんどの人は自分自身が怖がっていると勘違いしています。このような時、正念を固めることこそ、悪い執着心を取り除ける鍵となるのです。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/4/326135.html)
 
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