内に向けて自らを探った時に見た光景
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年6月20日】大法弟子としてトラブルや問題に遭った時は、必ず内に向けて自分自身を探さなければなりません。師父はこのように説かれました。「大法弟子は修煉者として、問題を見る時、人間と逆の角度から見るべきです。不愉快なことに 遭うと、機嫌が斜めになる人がいますが、それならあなたはほかでもなく、人間ではありませんか? 何の違いがあるのでしょうか? 不愉快なことに遭うときはちょうど、自らを修めるときであり、心を修めるときです」[1]

 ある時、トラブルに遭い、本当は自分が正しいのにかえって悪役になってしまいました。人心が阻止して、この難関を乗り超えることができず、私は「誰が是誰が非」を何度も何度も暗唱しました。50回目を暗唱し終えても、やはり自分が正しいと思っていました。しかし、これでは師父の教えに背いているのではないでしょうか。

 師父はこのように説かれました。「修煉する人、自らの過ちを探し、各種の人心取り去ること多し、大なる関小なる関、落さんと想ふべからず、正しきは彼、過ちは私、何を争ふものか」[2]

 師父の法を暗唱しながらも自分の執着を放そうとしないなど、なんと頑固な人心でしょう。これではいけないと思い、続けて暗唱しました。70回目の時、争う心が無くなり、90回目の時は自分自身が笑えてきたのです。なぜこれほどまで常人の理に執着していたのでしょう。あまりにもつまらない事です。そして、100回目に達した時、目の前に大海原が現れ、海面の上には「大海是我的胸杯」という金色に輝く大きな字が、浮かんできました。金色の波はこの詩句を乗せながら山を押しのけ、海をひっくり返すほどの勢いで、私に向かってやってきました。この時、瞬時に自分自身が大きくなり、心の扉を開けると、海と金色の詩の一節が胸の中に流れ込んできました。すぐさま心が晴れやかに明るくなった気がして、同時に身体も軽くなったという感じがしました。

 またある時、たくさんの人心を見つけ出しました。長年修煉してきても、未だにこれほど多くの人心を持っていたことにショックを受けました。自分が正しいと思い、同修の執着心を見つけた時、内に向けて真剣に自分自身を探りもせず、かえって同修のせいにしていました。トラブルに遭った時、一歩も後ろへ引き下がろうとせず、無理してでも前へ進もうとし、人心をもって解決していました。そして、闘争心も嫉妬心も強く、独りよがりで、常に常人の理を抱えていました。その上、口を修めることもできておらず、師父の教えも聴かず、無条件に法に同化することもできていませんでした。

 これらの人心を見つけ出したことで、自分の修煉の未熟さに気づきました。部屋に飾ってある師父の写真を見て、自分自身が恥ずかしくて師父の顔がまともに見ることができず、思わず目を逸らしました。すると、ある小さな女の子が真剣に写真に向かって、礼拝しているのが見えました。女の子は昔の衣装を着ており、その服は汚れ、女の子も埃だらけに見えました。その子を見て、「きれいに洗ってから、礼拝しなさいよ」と心の中で思いました。それからその女の子は自分の心を師父の前に差し出しました。けれども、その心も汚れており、透き通っていませんでした。それを見た私は、「こんな不純な心を、師父の前に差し出してはダメじゃないの」とさらに恥ずかしく思いました。しかし、奇跡が起きました。師父が手を伸ばされた瞬間に、心は楽しそうに跳ね上がって、師父の掌にりました。師父の掌の上で弾んでいたその心は、瞬時に透き通った真珠の珠のようになり、女の子も真珠の珠が放つ光の中できれいになったのです。その女の子は私であるとはっきりと分かりました。これは師父からの悟らせなのです。「どれほど悪くても、師父は依然として私を掌中の珠として見てくださっている」と気づいた瞬間、涙があふれ出しました。視界がぼやけている中、ふと聖者ミラレパの修煉の物語を思い出しました。ミラレパは身・口・意をもって、その師であるマルパ・ロツァワを信じ、どこまでも付き従ったこの物語に深く感動したことを覚えています。長い間、修煉してきましたが、自分自身は聖者ミラレパのように、身・口・意をもって師父を信じ、どこまでも付き従ってきたとはとても言えず、むしろ、自分が純真ではなく、どこかきたなく汚れているとずっと思っていました。しかし、師父の悟らせにより、真剣に内に向けて自らの心を探り、自分自身を真に修めていけば、それが師父への最高のプレゼントであり、恩返しでもあるということが真に分かりました。

 ですから、しっかりと人心を修め、全力で精進し、師父の慈悲なる済度を無にしてはいけないのです!

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [2]李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [3]李洪志師父の詩:『洪吟四』「大海是我的胸杯」」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/7/329731.html)
 
関連文章