迫害の暴露文を書く時 言葉使いに注意すべき
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文╱中国の大法弟子 清苗

 【明慧日本2016年11月8日】数日前、ある弁護士から、迫害を暴露する文章が明慧ネットで掲載された後、当同修は留置場で報復され、迫害されたと聞きました。弁護士は『〇〇は留置場で残虐な灌食を受ける』の文章を探して見せてくれました。その中には、某女性警官が「極めて偽善的に、知恵を絞って女性学習者を迫害した」と書かれていました。弁護士は「この文章が掲載された後、文章の中で言及された学習者は報復され、絶食をやめた後でも、食事を与えられないなどの仕打ちを受けた」と言いました。

 私はとても心を痛みました。文章を書く時、言葉使いや精神状態に注意すべきだと思いました。私達が書く文章は下劣な言葉で関係者の品行を貶して、人間の悪い一面を刺激してはいけないと思いました。

 個人的な理解では、このようなやりかたでは修煉者の慈悲を現すことはできないと思いました。邪悪な環境の下で、私達を殴打し大きな苦痛を与えた警官に対しても、下劣な言葉で彼女たちを軽蔑するのではなく、できるだけ慈悲の心を持って、穏やかな言葉使いで、彼らの悪行を指摘し、善念を啓発して、人に傷つけないようにするべきだと思いました。師父は私達に「もし、それが妨害と破壊によるものだと気づいたならば、具体的な問題に対処するとき、表面の人間に対してはできるだけ穏やかに慈悲深く接するべきです。なぜなら、邪悪が人間を利用するとき、とかく人間自身ははっきりと気づいていないからです(利用された人は、往々にして考えの良くない人、あるいは良くない考えが現れた人です)。他の空間の邪悪な妨害に対しては、必ず厳粛に正念を用いて根絶しなければなりません」[1]と説かれました。

 迫害を暴露し、悪行を制止する文章を書く時は、ただ具体的な事実だけを述べ、感情的にならず、刺激するような言葉を避けなければならないと考えています。

 私は不当に労働教養され、合同訓練隊に拘禁された時、幾度もの難関を突き破り、邪悪の黒巣から多くの告発状を投函しました。その中で、女性警官たちは、受刑者に暴言を吐き、暴力を振るい、トイレに行かせないなどの事実を暴露しました。しかし、私は報復されず、むしろ女性警官に尊重され、信頼を勝ち取り、比較的良い環境を切り開くことができました。

 家に帰った後も、不当に連行された同修のことについて、関係責任者に真相を伝える手紙を書きました。手紙の中で、私は具体的な人物と事実に焦点を当て、某警官は刑務所の規則を暗唱しない同修に、残酷な刑罰を与えたことを暴露しました。その後、釈放された同修の話によると、その警官は「手紙を受け取った。私のことをそれほど悪く言っていない、私と和解できたんだ」と言ったそうです。手紙の内容はあの警官の心に影響を及ぼしたと同修は見ていました。この女性警官は多くの人にひどい恐怖感を与えた人でした。

 明慧ネットに暴露文を書く時、私たちは多くの読者を念頭におかなければなりません。読者には「610弁公室」の人もいれば、留置場、労働教養所の警官もいて、更に多くの同修がいます。私たちはもっと多くの人、例えば海外の人や中国の知り合いなどに、この事実を知ってもらいたければ、いろんなことを配慮しなければなりません。さらに、この機会を利用して「610弁公室」の人に、迫害された同修のいろんな側面を知ってもらうと同時に、彼らに善念が芽生えるよう啓発しなければならないと思いました。

 私の場合、たとえ彼らの悪事を書く時でも、醜い言葉を使って彼らの品行を述べません。そのようにすれば、彼らを外に押し出すことと同じだと理解しています。私はいつも良い方向に、正しいやり方のほうに彼らを導きながら話を進めています。面と向かって真相を伝える時でも、文章を書く時でも、修煉者の風格を顕わさなければならないと思いました。修煉者は衆生を善に導くべきで、汚い言葉を使うべきではありません。なぜなら、一筆一筆は救い済度する心の表れでなければならないからです。

 師父は「偶然に出会った人、生活の中や仕事の中で出会った人に皆さんは真相を伝えなければなりません。この世ですれ違って、話ができなかった人にも慈悲を与えなければなりません」[2]と説かれています。

 考えてみてください。もし、担当の警察署長が私達の前にいれば、私達は彼のことを「極めて偽善だ」と言うでしょうか、言わないでしょう。きっと善意を持って対応し、利害関係を説明するに違いありません。文章も手紙もそうですが、書く時は、相手が目の前にいるつもりで、相手に誠意をもって話を進めるべきではないでしょうか。

 一部の同修は「震え上がらせるべきだ」と言います。しかし、もし怨む心を持っていれば、きっと邪悪を震え上がらせることはできません。私たちは迷いの空間にいて、誰かの過去や未来を見分けることはできません。ただできるだけ救い済度して、人を救う心を持って一筆一筆を書いていけば、きっと効果は異なってくると信じています。

 以上は少しの浅見です。適当でない所があれば、同修のご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作『精進要旨二』「法を正すことと修煉」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/2/337132.html)
 
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