嫉妬心を取り除くことを重視しよう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月29日】修煉する中で、もっとも重視しなければならないことは嫉妬心を取り除くことです。私は何と十数年も嫉妬心を軽視し、自分には嫉妬心があまりないと考えていました。最近、心を静めて内に向けて探してやっと自分の嫉妬心に気づきましたが、しかも時々とてもひどいのです。

 数年前に明慧ネットへの投稿文章を書き始めたさい、時には自分の文章がとても良くできていると思っていても、発表されませんでした。他人の書いたあまりよくない文章(自分の考えでは)が発表されたのを見て、心中穏やかでなくなり、嫉妬するあまり編集者に対して怨む心が生じ、文章の善し悪しも見分ける能力がないのかと編集者のレベルを疑いました。このような事が何度も繰り返し現れて、自分の嫉妬心によるものだと認識してから、やっと状況が変わりました。

 その後、自分の嫉妬心を深く掘り下げてやっと気づいたことですが、今までの自分は文章を書く出発点が法を実証するためではなく、邪悪を暴露して衆生を救うためでもなく、単に文章が発表されることを狙い、それによって自分の文章力と高い才能を顕示したかっただけです。名声を求める心がいかに強かったことでしょう! 嫉妬心には顕示心、歓喜心、怨む心、名利心、自我を実証する心が隠されています。これほど多くの執着心が自分に存在することに気づき、私は問題の厳重性をやっと意識しました!

 私は同修に嫉妬するときもありました。ある日、同修・Aさんの文章が明慧法会特別号に掲載されました。私は明慧ネット特別号の画面を開いた途端、それがAさんの文章だとすぐに気づきました。真っ先に脳裏に現れたのは、同修の文章が選ばれたことに対する喜びではなく、何とも言えない嫌な気持ちでした。同修の文章を2回じっくり読んで、同修が着実に修煉してきた事に感嘆するとともに、やっと自分と同修との間の次元の開きが大きいことが分かりました。しかし、どうして最初は嫌な気持ちが現われたのでしょうか? そこに嫉妬心の働きがあったことに気づいたのです。文章をもっとうまく書ける自分の文章が発表されず、逆に、うまく書けない同修の文章が発表されました。そこがどうしても腑に落ちなかったのです。しかし、よく考えてみれば、良い文章は着実に修煉した結果の表れなので、良く修めていなければどうしてよい文章が書けるでしょうか? 自分の文章はなぜ発表されなかったのでしょうか? 自分が良く修めていなかったからです!

 数年前、私は同修が開業した工場でアルバイトをしていた時、月給5000元をもらう雇われ工場長(女性)がいました。彼女は口が達者な常人で、毎日遅く出勤しては早退し、用事がある度に私に電話で指示し、代行させていました。そのせいで、私は業務において何度も濡れ衣を着せられ、最初は自分が修煉者なので、常人と争ってはいけないと思い、嫌々我慢していました。最後はどうしても耐えきれずに、社長(同修)に辞職の意を伝えました。のちに、私は辞職を大変後悔しました。修煉において偶然な事はあるでしょうか? トラブルは自分自身を向上させるチャンスだったのに、私は自らトラブルを押しのけて、向上の機縁を失いました。

 事後、私は内に向けて探し、自分が工場長に対して嫉妬心が生じたことに気づきました。しかし、当時私は彼女が私に嫉妬し、私を押し出そうとしていると考えていました。常人の考えや理に沿ってトラブルの原因を分析すれば、彼女が私に嫉妬して排斥しようとしたと考えても可笑しくなかったかもしれません。しかし、高次元の理で判断すれば、物事は真逆でした。この事が私に深刻な教訓を残しました。その後、私は自分が修煉者であることを常に意識し、トラブルに遭えばまず無条件に内に向けて自分の間違いを探すようにしました。よくできていれば修煉者と言えますが、そうでなければ常人と何の違いがあるでしょうか。しかも、良くできていなければ常人に大法に対する悪い印象を与えてしまい、衆生を毀してしまうこともありえます。それはもっともしてはいけないことです。

 じっくり考えてみれば、嫉妬心は私の身において多すぎるほどの表れがあって、時には一つの考えや一つの念の中にも嫉妬心が滲んでいます。今は嫉妬心の根源には名利心があって、利己的な本性があることが分かりました。この時、私は師父の説法を思い出しました。「皆さんは人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しようとしなければ、機会を失うことになります。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」[1]、「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、われわれが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[2]

 個人的に思うには、嫉妬心は修煉においてもっとも普遍的で、もっとも頑固で、もっとも取り除き難い心だと思います。真に修煉して向上したければ、嫉妬心を取り除くことを十分に重視しなければなりません!

 浅はかな体得ですが、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/24/346044.html)
 
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