自らの観念を放下し、法で物事を判断する
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2017年2月6日】幼いころからの私の夢は強い女性になることでした。仕事や業績、名誉、利益、そして、情に人生のすべてをかけようとさえ思っていました。しかしながら、修煉してからは常人のすべての観念を取り除かなければならず、目標に向けて戦おうとして、大変な道のりを歩んだことがあります。

 修煉する前、私はあまり笑わない子供でした。毎日テストの点数と人間関係で不快になり、とても疲れて、情緒も不安定でした。高校入試の前日、シャワーを浴びている最中に「高校なんてもういやだ!」と思い切り泣き叫んだことがあり、家族にも心配をかけました。

 修煉してからは、生きている本当の意味を知り、名利を追い求めるのではなく、本性に戻り、真に返ることがこの世で生きている理由だと認識しました。特に1999年に法を得てから、個人の修煉と法を実証することが重なり、その上、真相を伝えるなどたくさんの事をしなければなりません。それにつれて私はだんだんと穏やかになり、良く笑うようになり、心の底から名利と情を淡く見ることができたので、これにより、進学も順調で大学も大学院も第1志願の場所に入学することができたのです。

 修煉とは絶えず精進すること

 卒業してからは外交官になりたいと強く願い、試験にも膨大な時間と精神を注ぎ込みました。しかし、合わせて3回受けましたが、毎回、僅かな点差で落ちてしまいました。この過程の中で「自分で自分の人生を決める」という心理が少しずつ弱くなっていき、常人の観念で何かを左右するよりも、真っ先に師父がすべてを按排してくださっている、師父の教えを聴こうと考えるようになったのです。

 外交官になることを諦めた後、わずか2カ月で全く違う分野で合格率がまだ5パーセントに満たない世界的に有名な会社に採用され、事業管理という仕事を任されました。これは以前の私にはとても思いつかなかったことでした。特に、この仕事は非常に面白く、社会に貢献できる上、仕事の量も適度なので、自分で自分のスケジュールを決めることができます。仕事が終わっても疲労を感じず、真相を伝えることも頑張ることができ、「掛け持ち」しても、能力範囲内で、最高の仕事と言えるでしょう。

 勤務してちょうど2年目になったある日、オフィスで精進すべき事件が起こりました。チーフが急に様々な面で私に無理難題を出してきたのです。はじめは私を無視し、それから、同僚を通じて私への不満を溢し始め、しまいには、私を昇進させないなどの噂も出ていたのです。

 このようなことが起きた時は、とてもつらかったのです。心性を向上させる良い機会であることはわかっていても、やはり、常人の心が増して心が痛かったのです。当時は、毎日時間さえあれば法を暗記していました。「われわれ煉功者においては、トラブルが突然現われることがあります。その時、どのように対処すればよいでしょうか? 平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」[1]と師父は説かれました。

 苦を嘗めるほかに、私は自らの執着心を探り始めました。まずは、仕事への愛着に問題があることに気づいたのです。上司に言い渡されたことは完璧にこなしますが、言われないところは自ら考えようとも、やろうともしませんでした。少しでも時間があればすぐに法を勉強したり、真相を伝えたりして、精進しているように見えますが、実際は、『轉法輪』の中の「早く出勤し遅く退勤するようになり、コツコツと働き、上司から与えられた仕事は何でも文句無しに受け入れ、利益をめぐって争うこともなくなりました」という基準から見れば、差が大きすぎました。

 これらの不足に気づき、変えようと努力しました。積極的に仕事に取り組み、上司や同僚、顧客などの事をもっと考えるようにしていくと、再び上司と同僚の賞賛を得ることができました。この上司はすぐに転勤しましたが、今思えば、当時彼の態度はとても強引で、自己中心のナルシストであり、些細な事で相手の事を評価していましたが、これらはすべてまさに自分を映し出す鏡でした。師父は常人の態度で私に自らの執着心を気づかせようとしてくださっていたのです。師父にはとても感謝していますし、これらの不足に気づいたからには取り除く努力をしなければなりません。悪い執着心と観念を取り除く、これは実修の部分です。

 常人の観念を変え、一つの問題を絶対化しない

 他人と接していく中で、自分が不公平だと感じた時、多くの場合は、他人が自分の観念に合っていないからです。例えば、最近、映画製作の項目では、同修たちは交流を通じて、すでに決定した脚本を変えました。とり換えた後、確かに前よりは良くなりましたが、やはり多少の漏れがありました。このことを聞いた瞬間、「なんて無茶なことを!」と私は瞬時に不満に思いました。しかし、良く考えてみれば、同修たちの方向性は正しく、ただ、漏れの部分を補充すればいいだけということに気づきました。内に向けて探したところ、同修が意見を出したとき、私の最初の反応は否定であり、黙ってそれを受け入れませんでした。

 「ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。道が異なり、一人一人の道も異なっており、生命が法から悟った理は皆それぞれ違っていますが、結果は同じかもしれません。ですから、神たちはまず結果を見るのです。到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。神はこのようにして問題に対処しています」[2]と師父は説かれました。

 自身の観念を守ることに必死になっている時、最優先にしているのは「自我」であり、法ではありませんでした。まして、当時の状況と自分の常人の観念が真逆なので、憤怒して嫉妬心が生まれた時、さらに法から遠ざかって行ったのです。例えば、身近な同僚は頭がいいわけでも、見た目がいいわけでもないのに、なぜか皆に好かれています。私はすぐに不公平を感じ、なぜ彼は皆の注目を引くのかと嫉妬してしまいました。すぐにこの執着心をさらに掘り下げていくと、頭が良く、見た目もいい人こそ優秀であると自分の常人の観念を最優先にしていることに気づきました。師父は「真・善・忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」[1]と説かれました。それなのに、私は頭が良いことと、外見が優れていることを人を判断する基準にしていたのです。

 修煉していく過程の中で、自らの常人の観念を逃さずに、それを抑制し、取り除いていくことこそ実修なのです。執着心は取り除かれたくないと時々反抗します。この時、苦を嘗めることを恐れずに我慢することができれば、師父はこの黒い物質を取り除いてくださるので、私の次元も高まり、法に溶け込むことができます。そうでなければ、執着心に左右されて、どんどん下に落ちていき、衆生を救うこともままなりません。

 今では、しっかりと自分の認識で行動することができ、絶対化を無くし、できる限り自我を放下しています。自分の認識には限りがあり、宇宙の絶対的な真理は見えないのです。常人の観念を死守し、自らの認識を真理と見なしている時は、法より自分を優先していることになり、自らの心より魔が生じる前兆なのです。

 修煉において、足りない部分はまだたくさんあり、仕事を終わると休憩しようと自分に対する要求を緩めてしまいます。これから、時間を無駄にせず、しっかりと「三つのこと」をしっかりと成し遂げ、使命を果たしていきたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/25/337918.html )
 
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