文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年12月30日】今年、私の修煉状態はあまりよくなく精進できず、ずっと後悔する中で時間が流れて行きました。すごく意気消沈したわけではありませんが、突破できませんでした。よく知っている周辺の同修を見ても、皆は最後になるにつれて、あれこれに気を取られて、修煉状態が理想的とは言えませんでした。私たちのような弟子を見て、師父はどう思われ、どうされるかと時々思いました。ただ、師父の慈悲は私たちの想像を遙かに超えると感じていました。
長年、出稼ぎのために地方に出てきた私の周辺環境は複雑ではなく、心性の関が少なく、同修と一緒にいる機会も極めて少なかったのです。最近グループ学法に参加して、同修と協力しながら真相を伝え、少し精進するようになりました。その間、数人の新しい同修にも出会いました。グループにいる同修たちは明慧の交流文章で言及される精進している同修たちと違い、法を学ぶ際は読むことに留まり、修煉体験の交流をせず、学法の前に世間話をしていました。私は彼らに感心した覚えはなく、観念にある「指摘や助け」も感じませんでした。
私はまさに観念に遮られて、同修の不足しか見えていませんでした。彼らは学法を多くしているものの、法理を十分に理解できず、真相を多く伝えず、伝えても私よりさほどよくないと推測していました。このような観念の下、私はどうして奮起し、同修に追いつけるでしょうか? これらの観念は思想業力でなければ、自分の心に魔が生じたものでしょう。私の修煉状態は以前のままでした。
昨日、ある同修にその推測を正されました。同修の話によると、2人の年配の同修(全部で4人)は毎日一軒一軒訪ねて真相を伝え、週に数十人を三退させ、退職してからは専業としてやってきました。私はその話に驚き、たいへん震撼しました。身近に精進している同修がいるとは思いませんでした。自分の悟性が良くなく、認識が足りず、いつも精進している同修とは遙かに離れていると思っていました!
再び同修達が世間話をする場面を思い出して見ると、とても穏やかで調和が取れていて、真実かつ自然で、皆が楽しく自由に会話を交わし、狡猾さや弁解、説教がなく、どんな次元の生命とも協力できて包容できる広い胸襟と慈悲を感じ取ることができます。その流れ出る真、善、寛容はとても自然でした! 彼らが良く修めていなければ、どうしてそれだけ多くの衆生を救うことができたでしょうか! しかし、私は同修のよくできている部分を見ないで、いつも観念によって彼らの「不足」を見て来ました。
この事を通して、私は法を持って修煉状態を測ることが分かり、いくつかの頑固な観念が変えられて、同修の「不足」に影響されず、消沈状態が少し改善され、正念も多くなりました。今朝、座禅の際、脚に少しも痛みを感じませんでした。以前も痛みを感じない日がありましたが、1時間ぶっ通して痛みを感じないことはありませんでした。しかし、今回は珍しく心が静まり返って、1時間を超過してもずっとこのまま座禅していけるという感じでした。
師父は「本当に終わってしまえば、皆後悔してしまいます」[1]とおっしゃっています。これを思うと、私は涙を堪えることができず、はじめて、真に正法修煉の機縁の貴重さに気づきました! 修煉の機会は瞬く間に消えていきます! それは時間の問題ではありません。私は真心から三つのことを良く実行すべきです。そして良く実行出来たと感じたとき、その他のすべては重要でなくなりました。これを機に再び精進の状態に戻りたいと願っています。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『大紀元会議での説法』