同じ光景に笑い、法を学んだあと悲嘆の涙を流す
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年5月4日】この前、ひとりの同修が不当に審判を受けました。裁判の当日、裁判所の入り口には特別警官が二列に並び、厳戒態勢でした。中に入って傍聴しようとしてそこにいた私はこの態勢をみて、鼻であしらいました。これは邪悪の虚像であり、私を脅すことはできない、同時に邪悪に制御されている警官は非常にバカバカしいと感じ、その場で笑ってしまいました。当日の裁判の後、このことを忘れてしまいました。

 帰宅してから、数日間ずっと非常に煩わしくていらだたしく、何をやっても順調に進みませんでした。ネットで購入した炊飯器が届かず、仕事で書くべき原稿を書きたくなく、法の暗記も表面だけ暗記し、その意味をしりませんでした。頭の中はこまごまと煩わしい恨みばかりで、この同修のやり方が気に入らないとか、その店が品を送ってこなければ、もう買わないなどでした。自分でも自分の状態が正しくないと知っていましたが、問題がどこにあるか見つかりませんでした。

 私は師父の各地での説法を読み始めました。師父の説かれた「それでは、彼らの心はどういう状態なのでしょうか? それは寛容であり、非常に洪大な寛容であり、他の生命を受け容れ、本当に相手の立場に立って他の生命のことを考えてあげることができます。これは多くの人が修煉の過程でまだ到達できていないことですが、皆さんは徐々にそれを認識し、到達しようとしています」[1]を読んだ時、突然目覚めました。「相手の立場に立って」、そのとおりです。私のすべての煩わしい心と恨みは私が自分の感覚を第一位にして、相手の立場に立って他人の難しさを考えていないからでした。まるでその一瞬、すべてのマイナス的な情緒が私を離れて行き、それに取って変わるのは善良と穏やかなエネルギーが全身に満ちました。

 心を静めて発正念する時、頭に突然その日の二列に並んで立っていた特別警官の光景が浮かんできました。彼らの若くて、困惑気味の顔を見ながら、私は少しもバカバカしいと感じず、可哀想だと思いました。

 その日、北方の初春はまだ非常に寒く、風も吹いていましたが、彼らは直立して入り口に立っていました。困惑気味の人、人と笑っている警官もいましたが、彼らはまるで魂のない人形のように、ただ単純に命令を実行していました。最も可哀想そうなのは、彼らは自分たちが大法に対して罪を犯していると知らず、邪悪に利用されて大法弟子を迫害していることです。彼らはまだ自分が直面した結果が何かを知らず、或いは迷いからさめません。彼らもみな一人一人の高貴な生命であり、みな救いを待っている生命であり、彼らがこのまま愚かに旧勢力に台無しにされてはいけません。ここまで考えると、私は泣き出しました。彼らが救われていないこと、彼らが代表する背後の幾千幾万の衆生が救われてないことのため、絶えず涙を流しました。

 純粋で慈悲なる場が私を包み、私は師父が私を更に美しく、寛容で、他人のために考える慈悲な境地に導いてくださったと知りました。当時私は、「師父、師父は私のように私欲に満ちた人間をこれほどすばらしい境地に導いてくださり、私の業力を取り除いてくださり、すべてのすべてをくださいました。しかし、私はどうやって師父に応えられるでしょうか? 私はただ師父が私にくださった慈悲を私が出会うすべての人にもたらし、自我を放下し、相手の立場に立って他人のことを考え、出会うすべての縁のある人を救い、三つのことをしっかり行い、こうしてやっと私に対する師父の大いなる恩に報うことが出来るのです」と感謝しました。

 また師父は「ですから、如何なる環境においても、如何なる情況においても、トラブルに遭った場合、善良の心、慈悲の心をもって全てに対処すべきです。自分の敵を愛することができなければ、圓満成就することはできません」[2]と説かれました。やっと私は師父のこの説法のなかの大いなる慈悲と修煉者の到達すべき圓満の基準を体験できました。同時に、私達に精進する心さえあれば、師父は無私に私達がやる仕事毎に向上させてくださると気づきました。大法の殊勝とすばらしさを感じました。私たちが精進しない理由などあるでしょうか。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/15/344257.html)
 
関連文章