うちに向けて探し 意識できなかった私心を捨てる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月29日】人間は自分の利益だけを考える場合、一種の慣習的な思惟が形成されやすいのです。それは他人の欠点が非常にはっきりと見え、自分の不足には気づき難く、常に自分が辛い思いをしており、自分が正しいと思うのです。

 師父は私たちに如何に利己心を取り除くか、それはうちに向けて探すことだと教えてくださいました。しかし、形成された自分の利益だけを考える思惟は、自分の問題を認識することを非常に難しくしています。二つの例をあげます。

 一度、わたしは隣に住んでいた同修と、資料配布のことについて交流しました。同修はすぐ「この付近で資料を配布しないでください。ここは配布する人がたくさんいます」と言いました。次の話題は、付近に設置されている監視カメラに同修が映ったことで、同修は「なぜ資料を配布する時、私は監視カメラがあることに気がつかなかったのだろう?」と言いました。それを聞き、私は驚いてしまいました。先程私に、「付近で資料配布をしないでください」と言ったのは、あなたが配布したいからだったのでしょうか? 私は常にこのことを考えていました。同修は自分の話した言葉に問題があると意識出来ていないはずです。もし、逆の立場で考えると、私もこのように隠れている利己的な考え、見たところは資料が無駄になることを恐れるようですが、実際はまだ他に自分の考えがあることに気づいていないかもしれません。

 また一度、同修が買ったコピー用紙の品質が非常に悪く、常にプリンターに引っかかるので、同修はプリンターが壊れることを心配し、私に「あなたのプリンターはそんなことが起きないでしょうか」と言いました。私は「では、使い残しの半分の紙を持ってきてください。試してみましょう」と言いました。同修は、品質の良くない紙を全部持ってきました。当時私は、持ってきたらすべて受け取ろうと思っていたので、受け取りました。その結果、印刷してみたら本当に紙がプリンターに引っかかり、さんざん悩みました。また多くの時間を無駄にしてしまい、非常に怒りました。「同修はあまりにも利己的で、彼女は自分の時間だけを大切にして、自分のプリンターがトラブらないように、良くない紙をすべて私に渡した」と思いました。口喧嘩を避けるため、その数日間は我慢しました。自分の心が穏やかになってから、同修と交流しました。同修は「私はそれほど考えてないです。ただあなたのプリンターは性能が良いので、すべてあなたに渡しました。あなたのプリンターではこのようなことが起きないと思っていました」と言いました。しかし、どうして同修はこの紙が私にも同様にトラブルをもたらすと考えなかったのでしょうか。

 同修の利己的な考えは私の目の前にはっきりと現れました。

 しかし、私は逆に自分のことを考えてみました。私は今までそれほどはっきりと自分の利己的な考えと行為に対しては認識できておらず、認識できたとしても、自分の心を刺激しなかったのは、やはり私心ではないでしょうか。同修を利己的だと責めていいでしょうか。これはほかでもなく、自分の私心を取り除く最大の機会ではないでしょうか。

 師父は私たちに「どんな問題にぶつかっても自分を探さなければならないと私はいつも言っています。この問題があなたに関係なくても、あなたの目にとまったら、自分を探すべきです。このようにすれば、前進の道のりにあなたを阻むものはないと思います」[1]と教えてくださいました。多くの場合私心は、このようにしたくないと自分に思わせ、主体の思想を邪魔します。

 ある同修は私に「協力し合っている同修がいかにやりすぎか」ということを言いました。私はその話を聞き、非常にやりすぎだと思い、その同修を慰めました。師父は「二人がトラブルに遭ったとき、それを見た第三者まで自分を考えるべきです。つまり、彼らにトラブルが起きたのですが、なぜ私はそれを見たのでしょうか? 私に何かの心があるのでしょうか? 私に同じ問題が存在しているのでしょうか?」[2]と説かれました。第三者としても無条件に自分を探さなければなりません。当事者はなおさらです。相手の不足はすべて、自分が最も嫌いで、最も容認できないことなのに、どうして彼女と同じような問題があるのでしょうか。しかし、同じ状況に遭遇したとき、相手と同じ行動を採らなかったとしても、似ている考えが浮かんだことはなかったでしょうか。

 もし、相手の不足を目にしても、うちに向けて探さなければ、どうやって自分の利己的な考えを取り除けるでしょうか。もし、自分にはあのような執着はないと固執し、すべて相手の間違いだと思い、或いはこの利己的な一念があれば、師父が私達のために按排してくださった、執着心を取り除く機会を無駄にし、同修の間に間隔を作ってしまいます。

 師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[3]と説かれました。現在、内に向けて探すことは最も有効な方法だと考えています。執着心を取り除くと共に、同修の間に間隔が生じないようにさせることができます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/23/346006.html)
 
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