淡泊であることの幸せと楽しさを真に体験する
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文/清新

 【明慧日本2017年4月29日】淡泊とは一種の心理状態であり、平和で、落ち着いてゆったりとして、虚栄を慕わないで、名利を好まず、非凡なものです。淡泊なことは一種の成熟であり、熟している稲穂と鈴なりになっている大きな果実のように、大地に向けて頭を下げます。淡泊なことは一種の美徳であり、大きな海のように心が広く、他人にも優しいのです。淡泊なことは一種の気質であり、平和で、高貴で、優雅です。淡泊なことは一種の修養であり、多くの場合、誠実さと善良さ、寛容さが伴います。淡泊なことは一種の平然であり、利益に心が動じない落ち着きがあり、高尚なものです。淡泊なことは一種の境地であり、非凡な素晴らしさを帯びています。

 まったくそのとおりです! 淡泊であることは一種の超脱であり、淡泊であることは一種の楽しさでもあり、淡泊であることは一種の幸せです! 小川は大海に流れ込んでこそ深くて広くて、静かで沈黙になり、巨大な容量で船を支えることができます。ですから、古人は「私利私欲に溺れることなく 淡泊でなければ、志を明らかにすることができない。落ち着いてゆったりした気持ちでないと、遠大な境地に達することができない」と語っています。

 幼いころ、私はその落ち着いてゆったりとした気持ちを追跡することが大好きでした。春になると、柔らかく芽吹いた草が静かに成長することを見ることが好きでした。夏になると、広大な青空の中、いろんな姿に変わり軽やかに漂うをみることが好きでした。秋になると、葉っぱの中に隠れている果実がほのかに芳しい香りを放っているのをみることが好きでした。冬になると、山並みや野原の上をおおう白雪が静かに大地を飾っていることをみることが好きでした。このように憧れている淡泊には、いつも人為的で表面的な追求と模倣、詩人のように淡々とした喜楽と憂愁に対する想像と追求があります。それは、内心から自然に溢れ出るものではなく、悲しいふりをしている感じがします。

 それからの成長の過程で、私は今もなお人生の意義は一体何かを探し求め、追求してきました。

 ついに、私は人生の道のりで幸いに法輪大法に出会い、真・善・忍を修煉して、宇宙の法理が分かり、執着心を切り捨てていく練磨を体験し、少しずつ、内心から虚栄と名利を淡々とみることができ、淡泊であることの平然さと超脱さを感じ取り、淡泊であることの素晴らしさと幸せを大いに体験しました! 師父の恩に深く感謝します! 師父の慈悲で、偉大なる教えに感謝します! 自分の幸運さと楽しさを喜びます!

 本当にその通りです。人間世界で幸いに大法に出会い、真・善・人の法理に従うことができたあなたには、おめでとうございます、と申し上げます! あなたは本当に今生を無駄にしなかったことになります! その時こそ、あなたはやっと真に淡泊であることの真の幸せと楽しさを体験でき、それは内心から、心の底から溢れ出すものです。また淡泊であることは一種の幸せだと感じ取れるに違いありません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/23/346010.html)
 
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