互いに不足を指摘し合う中で修煉する
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2017年5月8日】私は一時期、精進する気力を失ったことがあります。原因は分からず、深く考えようともしなかったため、結局は流れに身を任せてしまいました。1カ月前、同修に集団学法に連れて行かれました。今回の集団学法に参加してからは、毎日のように心と心がぶつかる中で人心が刺激され、頭もだんだんとはっきりしてきて、自分の本性が漸く立ち直ってきた気がしました。

 学法チームでは、毎日二講の『轉法輪』を勉強し、それから自分たちの修煉体験を交流します。同修たちが自らの体験談を話している時、私はただ静かに聞いていました。皆法理に基づいて問題に対処し、内に向けて自分たちの不足を探しているので、私も少しずつ内に向けて自分を探すことが出来るようになりました。また、以前、同修たちの交流を聞いている時、常に執着心や常人の観念を抱き他人にばかり目を向けて、自分自身を中心に物事を考え、意見をしている点にも気づくことが出来ました。

 思い返せば、初めて集団学法に参加した日、あることについて同修と言い争いになってしまい、その結果、他の同修にまで非難されました。表面上必死に我慢しましたが、内心では非常に不服でした。そして、その直後に自分のスマートフォンがどうのこうのと他の同修に遠慮なく文句を言われてしまいました。とても不満に思いましたが、内に向けて自分自身を探した後、なんとか同修の意見を受け入れることができました。

 最後に、とても精進していると自分が思っている同修に、私が煉功している時、ただ動作をやっているだけで、本当に煉功しているわけではないと言われ、また、何かを求めようとして法を勉強していると言われた時は、さすがに怒ってしまいましたが、顔には出さずになんとか耐えることができました。けれども、内心では非常に不愉快で、もう二度と集団学法に参加したくないと思いました。

 集団学法がある日の早朝に煉功しようとした時、頭の中がまたひっくり返ったように、同修に咎められている場面が浮かんできたり、様々な場面が次から次へと現れ考えれば考えるほどムカムカしてきて、思わず「チッ」と舌打ちしてしまいました。ちょうどその時、家族(同修)に注意されましたので、ますます内心の怒りを抑えられなくなり、しまいには修煉をやめるという念まで出てきてしまいました。しかし、私はその瞬間、危ないと気づきました。家族に自分が邪悪な生命に操られていると言われて、自分も修煉をやめようと思ったのは本当の自分ではないと悟りました。

 翌日は通常通りに集団学法に参加しました。もし行かなければ精進する機会を失い、邪悪の思うつぼだと悟りました。しかしながら、学法の後、以前私の問題を指摘し頑張っている同修が、私が自分の言葉を受け止められるかどうかを考えず、自分にも執着心があったと謝ってきたので、私は自分の気持ちを抑えられなくなり、怒りながら自分の気持ちを伝え、全て彼女のせいだと非難してしまいました。そして、これを聞いた同修は私の言葉の中から問題点を指摘したので、ついつい反発してしまいました。

 これ以上言い争わないように、別の同修が私たちの間に入ってきましたが、我慢の限界に達した私は、止めに入ってきた同修とも争いを始めてしまい、結局、他の同修に喝を入れられ漸くその場に座り、悔しさで涙が出ました。

 この時、私は漸く自分には修煉者としての品性がないことに気づきました。長い間修煉してきてトラブルに遭った時、未だ内に向けて自分を探すことができていないのです。忍耐するなど全くできておらず、修煉者ですらありません! これ以上大法を修煉する資格がないと思った私は、ゆっくり立ち上がりそのまま立ち去ろうとしました。すると、ある同修が走り寄ってきて、「皆あなたの不足を指摘しているのは、すべてあなたのためなのですよ! 本当は得しているのに邪悪の罠に嵌ったらダメよ!」と教えてくれました。これを聞いて冷静にならなければならないと思い、その場に座り自分の空間場をきれいにしようと発正念を始めました。

 少し経つとまた別の同修がやって来て、内に向けて自分自身を探すことでより良く師父を助け、法を実証することが出来るなどのことを交流しました。

 その時、私の目の前にある光景が広がりました。広大な宇宙の中には無数の小さな宇宙があり、それぞれの宇宙には独自の働きがあり、同時に他の宇宙と一体になっています。それぞれが正常に働き、師父が小さな宇宙を正しておられ、ついに私たちのところまでやって来られました。けれども、私は本当の自分と偽りの自分を見分けられないために、師父の法を正す勢いがやって来ると、自分はそれを妨げてしまいました。

 これを見て、私は本当の自分と背後にいる大きな執着心と区別することができ、頭が一気に冴えました。まるで旧勢力が自分の嫉妬しているものや自己中心的なところ、傲慢なところなどの大きな執着心を利用して、妨害と破壊の働きをしているのが見えた気がしました。これまでこれらの問題をはっきりと認識していなかったので、無意識のうちに旧勢力に協力してしまい、旧勢力が按排した道をこれまで歩んで来てしまいました。

 そして、私は席に戻り、また再び皆の交流に加わりました。同修たちと目があった瞬間に全ての誤解や隔たりが一気に溶け、傲慢な態度や謙虚になれないところが一瞬にして消え去りました。自分の空間場も明るくきれいになりました。自分が法理に基づいていない時、全ての思考が旧勢力に操られて、本性を見失っていたのです。

 続けて自分自身を探していく中で修煉していない時は、常人の中で皆に大事にされていたため、自己満足していました。法を得てからは、大法の中で何かを達成したくて、皆に認められたいとずっと思っていました。これは自らの名利や情を大法によって満たされたいという私利私欲ではないでしょうか。

 今回の経験を通じ、もし師父の巧妙な按排と心と心のぶつかり合いや同修たちの助けがなければ、おそらく私は未だに自らの執着を死守し、自我を見失っていたかもしれないと悟りました。

 自分が執着心や観念、悪い物質などに幾重にも包まれている時、それらをはっきりと認識しなければ、間違ってこれらの執着心や観念を自分であるとみなしてしまうのです。修煉していて苦しく思う時や疲れを感じたときは、これらの悪いものに操られているに違いありません。師父が与えてくださった「内に向けて自分を探す」という法器を運用すれば、幾重もの殻を突き破ることができ本性も強くなり、法理に基づいて問題をはっきりと認識することがきっとできるでしょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/11/338779.html)
 
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