文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年5月31日】最後の最後のこの時は、最も肝心な時です。私達の修煉における不十分な所はますます表面に現れ、隠そうとしても隠せなくなるでしょう。ずっと引きずって取り除けなかった人心や執着も最後までたまって来て、ますます目立つようになりました。修煉者として、いったい何を成就しようとしているのか、それは誰もが避けられず選択しなければならない問題となっています。
個人の体得では今の修煉の難しさは、外部の圧力や邪悪の迫害によるものではなく、それは私達の心の中の未だに取り除かれていない魔性によるものだと理解しています。つまり、私達が人間の中で放下できなかった執着や欲望は、前進の道を妨げ、はっきり言えば自分が自分を妨げているのです。それは今まで自分が厳粛に修煉を行って来なかった、自分を真の修煉者として扱って来なかった、つまり、自分の心が正しくなかった事からもたらした問題ではないでしょうか。
一部の人は直面している問題がますます厳しくなり、一部の人は次第に懈怠(けたい・なまける)し、甚だしきに至っては下へ滑ってしまいました。苦境に直面した時、勇猛精進して立ち向かうか、それともひたすら放任して消極的に対応して行くのか、それはすべて自分の選択次第です。私達に与えられた時間はもう多くありません。何もかもけじめをつけなければならず、いつまでたっても時間が延長されていくわけには行きません。うまくできるならばあなたは純金で、最後になればなるほど美しくなり、うまくできなければ中途半端で終わり、永遠の痛恨があなたを待っているでしょう。そうなった時、いくら悔やんでももうどうにもならないでしょう。なぜなら、すでに何度もチャンスを与えられたのに、あなたはそれを大切にせず、何度もそのチャンスを逃してしまったからです。
古代から広く伝わってきた多くの言葉は人間の弱点を深刻に総括しています。例えば、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、「壁に突き当たらなければ振り向きはしない」(とことんまで行かなければあきらめない)などがあります。それは人間が教訓を忘れがちで、痛ましい教訓が過ぎれば、また僥倖(ぎょうこう・思いがけない幸い)を望む心理で物事を進め、最後になすすべのない窮地に陥って、始めて後悔する事を言っています。
『道徳経』の中でも「民之从事也,恒于其成而败之。故曰:慎终若始,则无败事矣」と書かれています。つまり、人々はもうすぐ成功を収める時に失敗をしやすく、終始一貫をして、完成間近でも始まる時と同じように倦まず弛まず(うまずたゆまず・飽きたり気をゆるめたりしないで)慎重に行い、そうすれば始めて最後の成功を手に入れることができると言う意味です。
修煉は今日まで歩んで来て、もうそれほど難しくないと言えましょう。なぜなら、私達は当時の邪悪の狂気な迫害、家族の誤解、世間の人々からの軽蔑、生活の困窮、生死の試練などを乗り越えてきました。邪悪がほとんど一掃され、世間の人も目が覚め、環境が緩やかになり、その難度と圧力が随分小さくなった今では、私達修煉者の前進する足並みを阻止できるものはあるのでしょうか。一部の同衆は安逸を求めて次第にだらけ出し、甚だしきに至っては下へ滑り、一部の人はすでに危険な瀬戸際にまで落ちてきていても、それに気づかずまだ目覚めていません。本当に心を痛めることです!
法を正す期間はまだ終わっていません。私達にはまだ後悔し、改めるチャンスがあります。もし、この最後の時間もなくなれば、その時、私達はまだ正されていなければ、それなら、将来、私達は行く所があるのでしょうか。今のこのチャンスをしっかり掴んで、早く目を覚め、しっかりと自分を正して行きましょう! さもなければ、真相が明らかになった時、もう何もかも遅くなります!
2億年の歴史の中で、嫌と言うほど世の移り変わりを経験し、転生輪廻を繰り返し、数え切れないほどの苦しみを耐えてきたのは、今日のこの神聖な縁と結ばれ法を得て天国に戻るためです!! この一刻千金の時、私達自らの未来と無数の衆生の未来が決まるのです!!
師父は私達のために苦しみに耐えられておられます。私達は師父が巨大な犠牲を払われて取り替えてくださったこの時間を人間生活の享受にしていいものでしょうか。もし、そうであれば、私達には大法弟子と称する資格があるでしょうか!
自分も同修もぜひとも人心を放下し、勇猛精進し、終始全うして、法に則って物事を考え、師父が求められたものを円容し、真剣に、着実に三つのことを行い、圓満成就するまで頑張っていきましょう!! くれぐれも遺憾を残さないようにしましょう!