文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年6月28日】明慧ネットに投稿して十数年になります。明慧の同修が謹厳で真面目で責任感が強く、毎日中国からのたくさんの原稿をチェックし、そして中国の同修から現れた異なる心性による態度に対応しなければならないので、彼らのご苦労もよく知っているつもりです。
明慧ネットに投稿する過程は自分を修める過程です。時には納得しない問題があっても、文章を書いているうちに分かるようになり、そして、文章を書く時、自分が大法の内包に対する理解や同修と世間の人に対する責任感が問われるので、自ら高めるとてもいい機会だと理解しています。
時には発表された自分の原稿が明慧の同修に丁寧に訂正されているのを見て、とても恥ずかしく思いました。もし、自分がもう少し注意を払い、もう少し責任を感じていれば、明慧ネットの同修の貴重な時間と労力を無駄にしなくて済んだのに、と思ったりもします。自分の原稿が発表されない場合、自分が書いた文章の出発点に問題があったのではないか、何か執着心があったのではないか、さらに、自分が本当に真剣に対処したのか、適当に書いてすぐに投稿したのではないか、明慧の同修の編集時間を無駄にしたのではないか、といろいろ反省します。
私の経験では、法に則って物事を考える時、心が慈悲で穏やかな時、本気で同修のために、他人のために、また衆生のために考えた時、そして、表現が正しく話の筋が通っていれば、いろんな読者の受け入れ能力を考慮していれば、投稿した文章は発表されやすくなります。
当然、投稿したものが発表されないのは、いろんな要因が考えられます。例えば、原稿の質に問題があって、読者にその事の経緯をなかなか理解してもらえず、前後の記述に矛盾があり、あるいは報道するもっとも肝心な情報が乏しく、さらに、明慧ネットを利用して人を説得させようとする気持ちがある、などが挙げられます。時には書かれた内容には普遍性がなく(明慧の同修は情報を集め、集中報道する場合もある)、あるいは提起した問題そのものが正しくても、本質的な所、あるいは肝心な所をズバリと指摘できていないため、明慧の同修がもっと説得力のある文章を待っている場合もあります。詳しいことは明慧ネット2004年8月1日に発表された明慧編集部の『投稿が採用されない大陸の同修へ』の中で詳細に記述してありますので、ご参照ください。
明慧ネットの報道にはミスのある場合もあります。報道してから始めていろんな所から指摘され、その後、訂正される場合があります。これらのミスは、時には大陸の邪悪の環境によって、情報を確かめることが出来ず、あるいは伝達の過程でミスを起こし、さらに、情報を提供する中国の同修が党文化の影響を受け、誇張した表現や厳密ではない態度によるものです。ここでは、中国の同修に呼びかけたいと思います。投稿する時、くれぐれも厳密で責任のある態度で臨んでいただき、誇張しない、憶測や推測で報道しないようにしていただきたいと思います。明慧ネットの名誉に責任を持ち、自分の修煉に責任を持つようにしましょう。
明慧と連絡をする中、とても大きな困惑は明慧の同修から返信をしてくれないことです。明慧の同修が忙しすぎて、中国の大勢の同修に一々返信出来ないのがその理由かもしれません。しかし、返信しないこと自体が返事かもしれません。考えて見れば、内に向けて探すべきことを自ら探し、悟るべきことを自ら悟り、高めるべきことを自ら高めるのは当然なことで、何もかも明慧の同修に押し付けてはいけません。法に則って自らを探し、自らを修め、自力で問題やトラブルを解決して行くのが、本来の姿ではないでしょうか。一方、ネット上でのやり取りは環境、習慣、理解、そして表現の違いによって、誤解や理解のズレを招きやすく、そして、やり取りをしている間に誤解をさらに深める可能性もあるので、それも明慧の同修が返事しない理由ではないでしょうか。
重大な問題やひどいズレが生じた場合、明慧の同修は返信してくれました。しかし、一部の同修は自分の執着心を放下せず、明慧の同修に直接反対しないものの、「明慧の同修は状況を知らない」とか、「実際はこうだ」とか言い訳をします。明慧の同修が言ったことは絶対的ではないと思いますが、しかし、長年、彼らはすでに大量の経験を積んでおり、しかも、中国各地の状況と問題を幅広く把握し、中国の同修の全体の立場に立って物事を判断することができ、そして、彼らは中国の同修をとても大事にし、中国の同修の安全を第一に考えるようにしています。そして、明慧ネットは師父が見守っておられるため、方向性には問題がないはずです。ですので、私達は明慧と連絡する中、自らを修め、善意を持って相手を理解し、明慧に対してネガティブな考え方や、愚痴や反発感情を持たないようにしましょう。互いに協力する気持ちで私達のウェブサイトをしっかり守って行きましょう!