文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年9月11日】争いは今の中国大陸の隅々まで浸透しており、社会全体が中国共産党の闘争哲学によって、動かされていると言っても過言ではありません。闘争哲学はすでに中国人の生存理念となり、なくてはならない生活手段となっているのです。どうしてこのような結果になったのでしょうか? それは中国共産党が長い年月をかけ、意図的に、強制的に人々に闘争哲学を注ぎ込み、教育し、影響を与え、洗脳をした結果です。実は、毎回の政治運動は「人をつるし上げ」、人々に無理やりに邪悪な「闘争」に参加させるのもその目的を達成するためです。共産党の「偽・悪・闘」はかつての礼儀之邦(礼節や礼儀を重んじる国)の中国を、今日のような邪悪が横行する世の中に変貌させ、かつての伝統文化を尊崇(心から敬うこと)し、「和を以て貴しと為す」という昔の中華民族の良いものを壊し、互いに敵視するように仕向けてしまいました。
私自身のことを言うと、外ではまだうまくやっていますが、家では妻はいつも「あなたの喋り方がきつい。喧嘩を売っているように聞こえる、長く修煉をしてもまったく変わっていない」と文句を言っていました。それに対して、私は納得できず、当然反論や弁解をぺらぺら言ってしまうのです。子供たちも冗談で、「お父さんは深刻そうな顔をしている」とか、「階級闘争の表情がたっぷりだ」などと言います。家族は私に対して、「話をするとすぐに説教する」、「説教しなければ話ができない」との共通の印象を持っているようです。このような評価を聞いた私はとても悔しく思いました。悔しく思ったのは家族が私に対する否定的な考えや敬意を示さない態度ではなく、それは自分がしっかり修めていないせいで、彼らにこのような印象を与えてしまい、もし、それによって、彼らの将来の修煉に悪い影響を与えてしまえば、その罪がとても大きいことを感じているからです。
大法修煉をしてから、私達はできるだけ真・善・忍に基づいて心を修めて来ました。しかし、邪悪な闘争構造の中で形成された観念と習慣の下では、党文化の余毒は未だに徹底的に排除されておらず、名、利、情をまだ完全に放下していない状況の中、闘争心はやはり絶えまなく現れて来るのです。次では、闘争心はどのような危険性があるかについて分析したいと思います。
一、闘争心は 真・善・忍を実行できない
争うこと自体は悪で、「真・善・忍」と完全に乖離しているものです。闘争心の強い人は師尊が求められた「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[1]の境界に到達できません。多くの同修は幾つかの場面ではやり遂げたとしても、しかし、日常生活の中で、人と人の付き合いの中で、まだまだやり遂げておらず、特に家にいる場合はなおさらそうなのです。
私の場合、喋り方がきつく、話すスピードも速く、声が大きくて、口調も優しくないため、相手にとっては聞き心地は良くありません。穏やかな雰囲気がないため、私とのコミュニケーションを取りづらく、その結果、言い争いが多くなり、口論も避けられないのは現状のようです。幸いなことに、自分は修煉者であることを自覚しており、いけないと気づくとすぐにブレーキをかけ、そして非を認め謝りますが、しかし、言葉は心の声で、言葉が優しくない事は、心も優しくないことではないでしょうか。
二、怒りっぽい性格の陰に 闘争心
よく同修が自分が怒りっぽいと言っているのを聞き、私もいつもそのように感じています。今から考えれば、性格が悪い背後には実は、闘争心が妨害していることが分かりました。
闘争心の最も目立った現れは、我慢できないことです。怒りっぽいのは表面での振る舞いで、裏には闘争心が隠れており、さらにその背後に情に動じられた名と利を求める心があるのです。決して単なる怒りっぽいだけの問題ではありません。
尊師は「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります」[2]と説かれました。
三、闘争心は邪道を走っていること
闘争心は人に理性を失わせ、慈悲心を無くさせ、感情的になって極端に走らせるのです。闘争心のある人は良く負けず嫌いで、心のバランスが崩れ易く、相手の意見を受け入れません。それは嫉妬心とも関連性があるのですが、闘争心から嫉妬心が生まれ、嫉妬心は逆に闘争心を増長し、闘争心を強め、闘争心にエネルギーを注ぎ込むのです。
四、闘争心は真相伝えに悪影響を及ぼす
心の中に怨恨の気持ちがあれば、正念が生まれるはずがありません。考えて見て下さい。善の心、慈悲の心、正念がなければ、あるいはあってもとても弱ければ、人を救うことができるでしょうか。
闘争心の強い人は、他人より自分の方が何でも優れていると考えているため、他人に優しくなく、心の中ではいつも他人に抵抗し、争う姿勢を構えていて、トラブルに遭えば必ず一歩先に進み、「一歩引き下がれば世界が広々と開ける」という境地に到達できません。
闘争心の背後には名や利を求める心があり、これらの心があれば、闘争の渦巻の中から自力で抜け出すことはできません。
尊師は「平素から慈悲の心と、穏やかな心理状態を保たなければなりません。そうすれば、何か問題が突然現われた時に、それに正しく対処することができます。平素から慈悲の心を保っていれば、問題が突然現われても、たいてい一息おいて考える余裕があります。心の中でいつも人とあれこれ争うことばかり考えているのであれば、問題が起きると、必ず相手と真っ向からやり合うに違いありません」[2]と開示して下さいました。
闘争心の危険性は、「闘争心を取り除かなければ、自分は圓満成就ができないだけではなく、法を実証することと衆生を救い済度することにも損失をもたらす」ということです。私達は法を正す師に手伝う大法弟子で、闘争心を取り除かなければ、法を正す師に手伝うことが出来ないだけではなく、さらに大法に泥を塗ることになり、尊師の名誉を傷つけ、人を救うことに悪い影響を与えてしまうのです。
闘争心の根源は私(し)のための名、利、情を求める心にあるのです。大法弟子の修煉の最終目的は尊師が求められた「無私無我で、他人を先に、自分を後にする基準」に到達することなのです。闘争心を取り除かなければ、その基準に到達することができるでしょうか。従って、闘争心を必ず修めなければならないのです。
個人的な修煉体験です。法に則っていない箇所があれば、同修達の慈悲なるご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『シドニー法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』