文/日本の大法弟子
【明慧日本2017年9月29日】
敬愛する師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
法を得て修煉してから21年目になり、大小規模の法会に数えきれないほど参加しましたが、私自身は交流文章を書こうと思ったことがありませんでした。今回、このチャンスを私に下さった師父に大変感謝しており、心を静めて自分が歩んできた修煉の道のりを振り返り、改めて考えることができました。
96年に法を得て個人修煉の段階から、つまずいたり転んだり、山あり谷ありして師父について今日まで歩んできました。その中に、大きな関や小さな関を幾度となく経験してきましたが、本当に悔いを残さず正々堂々と「師父、弟子は全力を尽くしました......」と胸を張って言えるものは、数える程度しかありませんでした。
今回、本当に自分を修めることができ、関を乗り越えた後の体得を皆さんと交流したいと思います。
自分の修煉環境は、基本的に常人や同修との間のトラブルや衝突はあまり多くなく、その代わりに、同修である家族との関が持続的に長期にわたりなかなか越えられませんでした。良くなったり悪くなったりして、その繰り返しの中で、お互いにとても苦痛を感じていました。家での状態は修煉状態の最も真実な現れであり、それは家というのは最もリラックスできる場所であると同時に、最も事実を覆い隠すことができない場所でもあるからです。
実のところ、毎回の衝突はすべて生活の中の些細な事で、生活の習慣や、物事に対する行い方、話の態度等々でした。そして、トラブルが発生した際に、自分という壁にぶつかった時、とても心性を守りきれないのです。衝突のあとで自分の不足を探そうとしましたが、それよりも相手の欠点をより多く探してしまい、長年の積み重ねで、人を憎む心、闘争心、相手を見下す心、自分が正しいと思う心などがさらに強くなり、いつもさらに苦痛を感じていました。
師父はニュージーランド法会での説法の中でこのように述べられています。「大法の中での修煉は人としての考えを一枚一枚取り除いていくことです。ご存知の通り、玉ねぎのように一枚一枚はがしていくと最後に全てなくなります。これがその本質なのです」。私は師父のこの説法を口実にして、自分の執着を探すことなく、また、深くまで掘り起こさず、毎回、毎回関の前でごまかしていました。
関が来た時、学法して家族の問題に対応した説法が見つかれば必ず覚えて、家族が穏やかな時にそれを読み聞かせ、表面上では学法して交流を行い、話の態度も穏やかでした。しかし実際には、意識的にあるいは無意識的に法を持って相手を抑え、相手を変えようとしており、法で自分を量らないので逆効果になり、ますます対立し、さらに警戒されるようになりました。長期的にこのような状態が続くと、心の中で隔たりが深まっていき、お互いに不満な心、闘争心、人を憎む心もますます強くなり、一緒に学法しても調和がとれず、読む時のリズムも一致せず、家族での学法は協調が取れなかったため、いろいろ何回も試しましたが、とうとう最後には集団学法を諦めざるを得ませんでした。
その後引っ越をし、近くの同修が毎日家に来て一緒に学法してくれたので、ようやくこの状態が変りました。しかし、外的な変化は表面上のみで、本当に内に向かって修め、内に向かって探し、自らを変えようとしたのではなく、根本的な問題はまだ解決されず、数日置きに摩擦あるいは冷戦状態が発生し、わけがわからず相手のことが気に入らなくなり、コントロールできないほど相手のよくない念が頭に浮かび、昔のあらゆることが湧きあがってきて、お互いに相手の欠点を目にして、相手を変えようとしており、自分を放下できずにいました。
「私の話し方がぶっきらぼうでお高くとまっている」、「いつも恨みごとを言い、批判し、不平不満をこぼす」と、同修である家族に指摘されて来たので、最近はずっと自分の話し方や口ぶり、態度を改善するよう努力してきたので、この方面において向上したと思い込み、得意になっていました。しかし、最近ある朝、朝食を作りながら何気なしに家族にガミガミ言ってしまったところ、家族が突然激怒して、手におえないほど私に向かってきました。この出来事の発生は突然で、予測できず、その時の形勢は手におえないと感じました。もし以前の私であれば心が動じていたはずですが、最近私は「自分を修め、自分を振り返って見る法理」を悟ったので、突然のトラブルの前でも逆に冷静でいられ、その瞬間、このトラブルの原因がわかったような気がしました。私は穏やかな心で目の前の全てに直面し、心の中で正念を発しながら内に向かって探しました。この内に向かって探すという念が浮かんだ瞬間、頭の中ですぐこの問題の原因が分かりました。最近、修煉上で非常に精進しなくなり、毎日4回の正念が保証できず、煉功も省いたり忘れたりして、学法に集中できず、他人には表面上から見抜くことができません。しかし、自分自身はごまかせず、良くない状態をはっきりと知っていました。自分が間違っているのを知っており、師父の写真の前で、「師父、弟子は間違いを犯しました。すべて私が精進していないことによってもたらされたものです」と師父に謝りしました。
今回突然やってきた事態の中で、私は相手に対してよくない考えが全くなく、本当に自分の内に向かって探した時、情況はすべて変わり、そのあとにも同修に対する怨恨と不満が一切ありませんでした。
もし、私に闘争心がなければ、同修の方から寄ってくるものです。もし、私に人を憎む心がなければ、同修は私に対して嫌われる事をしないはずです。私が憎めば憎むほど、同修はさらに私を悲しませ、そのことによって、私はさらに辛さと嫌な気持ちを覚え、さらに同修を相手にしたくなくなるのです。今私は、はっきりと分かりました。同修が悪いのではなく、自分の人を憎む心と闘争心がこのすべてを招いたのです。同修も修煉する中の人で、修煉ができていない部分に人心の現れがあり、私はちょうどこの面において放下できない執着があるため、旧勢力はこの部分を利用して同修との間にわだかまりを作り、私達はお互いに心性を守りきれず振り回され、旧勢力の罠に嵌められたのではありませんか。私達は家族であり、それぞれ自分の修煉の道があるとはいえ、やはりお互いに影響を受けており、自分自身の業力が旧勢力に利用され、同修の修煉できていない面を動かし、その結果として衝突が起きたのです。
師父は『米国フロリダ州法会での説法』の中で「自分の考えの中のものを根絶するとき、それはあなた自身の身体の範囲内に作用しますが、同時にあなたは外在のものも根絶しており、それがあなたのいる空間と直接関係しているため、あなたが彼らを根絶しなければ、彼らはあなたを迫害し抑制するだけではなく、他の学習者、他の大法弟子をも迫害するのです」と説かれました。
こんなにも長年の修煉を経ても、どうして私たちはまだ旧勢力がわからず、いつもだまされているのでしょうか、そして、家族の態度は私を修煉させようとしていたのではないでしょうか? 私はいつも家族が放下しないのをじっと見つめ、家族のためにあせり、どうしても自分を見ることをせず、遅々として悟らないため向上できず、どれだけ急がなければいけないかがわからない私を、師父は見てくださっていました。さらに、こうすべきではないとか、あれは間違っているとか、他人を非難し、どうしても自分自身から変わろうとせず、変わりませんでした。
なんとバカげたことでしょう、「こうすべきではない」とか「あれは間違っている」とかは自分に対して言う言葉だったのです。家族が関を越えている時の態度は、修煉者らしくなく、心性を守れない時、後で聞いたのですが、家族は非常に苦しく、誰もしっかり修煉しようと思わず、誰もしっかり向上しようと思わず、もし自分はこうではないと思うのならば、環境も変わりますが、しかし、修煉者がもし内に向けて探さず、自分を修めなければ、本当に苦しみ、もがくことになり、出て来れなくなるのです。そして、旧勢力は一挙両得とばかりに、私と家族を引き摺り落とそうとしたのです。
自分の執着と間違っている所を見つけ出した後、私は本当に二度と相手を恨まなくなり、家族に対して本当にすまなく思い、なぜなら私がうまく行えなかったことが家族に影響したからでした。
師父は『台湾法会への祝辞』の経文の中で「修煉とは人心を修め、自分自身を修めるということです。問題に遭遇したとき、トラブルや困難、そして理不尽な扱いを受けたときでも、自分自身の問題を探し、内に向けて探すことができれば、これこそ真に修煉していることになり、絶えず向上し、修煉の道を正しく歩み、円満成就に向かうことができるのです!」と説かれました。
実際、師父は説法の中で自分をしっかり修めるようにずっと私たちに教えてくださったにもかかわらず、学法においても自分に照らし合わせることことができなかったために、師父に要求されたことを行えず、それどころか、法を以って他人を量り、他人を変えようとしていました。法は自分に照らし合わせるためのものであり、他人を押さえつけるためのものではなく、またそれは師と法を尊敬していない、ということであるため、法の本当の内涵が何であるかが全く見えず、もし自分がよく修めることができれば、相手も変わるのです。しかし、問題に遭った時はいつも外へ外へと向けて探し、今回の関はまるでこれまでの愚かさや誤りから覚めたかのようで、本当にどのように自分を修めればいいのかがわかり、再び関を乗り越えることになった時に、どのように自分を振り返って見ればいいのかがわかり、自責の念でいっぱいで、言葉に表せないほどでした。
師父が与えてくださった向上の機会をどれだけ見逃してしまったのでしょうか。失ってしまった機会は二度と戻っては来ないので、かつて何度も空を見上げて、「時間は逆戻りできないのですか?」と師父にお尋ねしました。過ぎ去ってしまい、失ってしまい、正したくても、機縁はすでに過ぎ去ってしまいましたが、「今を大切にし、すべての向上の機会を把握し、何事にも心を尽くして行おう」と自分に言い聞かせました。そして、最後のこの修煉の道で、遺憾を少しでも少なくしたいと強く思いました。
「尽力(訳注:全力を尽くす)」という2文字の意味をしみじみと身に染みて感じる出来事がありました。家の小同修が舞踏コンクールに参加した時、決勝戦が終わった後すぐの、結果がまだわからない時に、私がビクビクしてパソコンの前でじっとしていると、ちょうど小同修からショートメールが届き、「結果がどうであれ、全力を尽くしました」と書かれていました。そのショートメールを見た瞬間、私は涙が流れ、自分の頭の中の、名利を追求し期待する汚れたものがすべて雲散霧消し、「尽力」の2文字には苦労と努力が内在に包括されていました。それなのに、法を以って誰と比べに行くというのでしょうか、法を以って自己を突破し、自分の全てを尽くしてやり遂げた、これで十分ではないでしょうか。修煉とは、少しずつ落ち着いて自分を修煉し、悟りやり遂げる、これこそが真の修煉というものです。もし一つ一つの事をやり遂げた後、「全力を尽くしました」と恥じることなく自分に対して言うことができれば、最後まで歩んだ時に、「師父、弟子は全力を尽くしました」と師父に申し上げることができるのではないでしょうか。
現在の心境は、「師父に要求されたことを行い、落ち着いて確実に修煉し、師父の洪吟で吟じられているように、さらによく成し遂げていきたい」ということです。
『着実に修める』の中で、師父は次のように説かれています。
法を学びて法を得る
比べて学び比べて修す
事々対照し
做すところ至るは是れ修なり
師父について最後まで修煉しようという気持ちが変わったことはありませんが、修煉の道でこのように精進せず、話を聞かず、心意気を見せられませんでした。何かを行うことは修煉ではなく、心性が向上しなければ役に立たず、今回、交流文章を書いたことは、とても大変なことで、その中で容易に気づくことのできなかった多くの自分の人心に気づかされました。また、少しずつ忘れていき、今ではほとんど忘れてしまった「修煉の初心」を思い出させていただき、師父に感謝申し上げ、この機会を与えてくださった師父に感謝申し上げます!! 自分の修煉体験を分かち合っていただき、同修の皆さん、ありがとうございました! 浅はかな体験ではありますが、至らないところがあれば、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。
(2017年日本法輪大法修煉体験交流会の発表原稿より)