文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年8月24日】法輪大法を修煉してからすでに12年が経ちました。私は同修に励まされ、いつからか覚えていないのですが、法会にすでに7、8回投稿しました。投稿したものは一度も発表されませんでしたが、しかし、毎回原稿を書く過程は、自らの不足を見つける過程であり、向上する過程でもありました。いかにして嫉妬心と顕示心を見つけたかを次に書き記し、皆さんと交流したいと思います。
嫉妬心を見つける過程
最初に原稿を書いた時、文章の書き方を習うことから始めました。私は同修の文章をたくさん読み、文章の書き方を確認し、最後に「彼らがやったことは私もやった。一部のことは私の方がもっとうまくいった。私は修煉を始めて間もないのだが、ここまでできた。自分のことを書いて彼らに見てもらおう」と結論を出しました。
そこで、私は書き始め、いつも夜中まで書いて、結構疲れました。しかし、この題材ももの足らず、あの題材も十分満足ではない、一体どれを書けばいいのだろうか、どれが一番素晴らしかったのかを考えました。こうして書いては破り、破ってはまた書いて、最後には書くこともできなくなりました。
「やはり、勉強が足りないから、もう少し同修の文章を読んでみよう」と思い、また同修の文章を読みました。しかし、「同修の文章は大したことが書かれていないし、普通過ぎる。自分も結構いろいろやったのに、どうして書けないのだろうか?」と悩みました。納得できないため、気を取り直してまた書いてみましたが、結局うまくいかず、諦めるしかありませんでした。
ある日、法を学んでいた時、「気功師が講習会を開いても、そこに坐って聞いている人の中には、『なにが気功師だ。言っているのは俺が聞きたくもないことばかりだ』と認めようとしない人もいます。気功師は確かにこの人より講演が下手かも知れませんが、しかしその気功師が言っているのは自分の門派のものです」[1]を読みました。
自分に照らし合わせてみると、「これは私のことを言っているのではないか。これは私の嫉妬心ではないか。だから私は書けなかったのだ」と分かりました。私は同修が言った「法の中で法を理解する」の意味が少し分かるようになりました。同修達の文章をもう一度読み直すと、なんと感動して何度も涙が流れました。「同じ文章を異なる気持ちで読むとこれだけインパクトが違うのだ」と大変驚きました。同時に、「内に向けて探す」ことの不思議な力を体得しました。
顕示心を見つける過程
原稿募集の通知の中に「投稿する際、自らを実証しないように」との注意書きがありました。それを読んだ時、「自らを実証する」と「法を実証する」の区別はいったい何なのかと考えました。自分には何らかの人心があることは分かっていましたが、しかし、どうしても見つかりません。そこで、私は一思一念から探してみました。なるほど、自分の行動の原点はすべて「私(し)」から始まり、「このことを私はどうすればいいのか、どれだけの困難を乗り越えてきたのか、どれだけの苦労をしてきたのか、どれだけ素晴らしく行ったのか」とばかり考えていました。それは潜在意識の中に、同修達に自分を見せたい、他の人に模範を示したいとの気持ちがあり、「これこそ、典型的な党文化ではないか、これこそ自らを実証するのではないか?」と思いました。
それでは、どう書けば「法を実証する」ことになるのだろうかと考えました。そこで、私はまず構想の段階から観念を転換して、「修煉の中で何か困難に出遇った時、どのように法の指導に基づいて行ったのか、法の中から何を悟ったのか、最後に法はどのように現れ、結果はどうなったのか」を考えるようにしました。その時、再び同修の文章を読んでみると、同修との間になんと雲泥の差があることに気付きました。しかし、まだ「根っこ」は見つかっていません。これはいったいどんな心でしょうか?
師父は私のこの心をご覧になり、啓示してくださいました。法を学ぶ時、「功能といい、功を開くことといい、みなあなたが大法の中で修煉して得たものにほかなりません。もし大法を二の次にして、自分の神通力を最重要視し、あるいは悟りを開いた人は自分の認識こそ正しいと思い、極端な場合は、うぬぼれて自分が大法を超えているとさえ思ったりしたら、その時点で、あなたはすでに堕ち始め、危うくなり、だんだん駄目になっていきます。そうなった時は、修煉が無駄になるので、本当に厄介なことになります。下手をすると堕ちていき、修煉を台なしにしてしまいます」[1]と、私に示して下さいました。
これは「顕示心」だとすぐに分かりました。ポロポロと涙が流れ落ちました。十数年来、師父は私にどれだけの心血を注いでくださったのだろうかと思うと、私は感激して言葉を失いました。
同修の皆さん、特に今まで一度も投稿していない古い同修達に申し上げたいと思います。是非とも筆をとって、法会に参加しましょう。師父に安心していただきましょう。
合掌
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』