嫉妬心についての再認識
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文/海外の大法弟子 蓮

   【明慧日本2017年7月10日】十数年来、私は嫉妬心とは自分の良い所と対比して心のバランスが悪くなった心理から出たものだと思っていました。やっとここ2~3年で悟ることができ、師父が指摘された嫉妬心の内涵はとても深いと感じました。

   嫉妬心とは常人から見た、金銭や外貌、子供、配偶者、事業、家庭環境、学業、学歴などを自分と対比した上で、負けを認めず、心服もせず、心のバランスが悪くなったものです。頭の中に「大したものではない」という一念が現れるのが嫉妬心なのです。修煉者から見て、しっかり修めている同修や状態がいい同修と比較して負けを認めず、心服もせず、心のバランスが悪くなり、大したものではないという思いも嫉妬心の一種です。

    他方、嫉妬心は自分と比べて差があり、自分のもつ基準に合わなければ軽蔑し、見下げるものもあります。常人の角度から、金銭、外貌、子供、配偶者、事業、家庭環境、学業、学歴の面で自分と比べた上で、相手を軽蔑し、見下げてしまいます。自分よりしっかり修めていない同修、状態が良くない同修を軽蔑し、見下げ、善意を持ってこれらの同修を助けようとしません。このような嫉妬心の現れは自分と比べて差がある同修が、その後向上して自分を越えたとき、相手のために喜ばず、「比して学び、比して修める」[1]ことなく、自分もさらにしっかりやろうと思わず、心のバランスを崩すのです。

    師父は『轉法輪』の第七講「嫉妬心」の中で、申公豹と姜子牙の物語をおっしゃいました。申公豹は姜子牙の能力と功能が自分とは比べることができないのに、元始天尊に重用されているのを見て、気分が悪くなりました。神は人間や修煉者を見るとき、功能と個人の能力を見ないで、その心を見るのです。私は今まで常人の仕事の中で、能力が低い人、反応が鈍い人、動きが遅い人に耐えられず、イライラしていました。これも実際は嫉妬心の一種です。

    修煉者の道徳はみな比較的に高尚ですが、常人の中に不徳な行為と言行が見えると、反感が出て、この常人が嫌になります。これも嫉妬心の一つの現れだと思います。最近気づいたのですが、自分がよくこのような人と出遇うのは、自分にこの心があるから、反感が出たのです。覚者は、このような人に対して慈悲と憐れみを持つのです。

    師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[2]とおっしゃいました。私は自分の考えから現れた如何なる念や悪念もみな、嫉妬心の一面だと悟りました。

    師父がおっしゃるには、「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、われわれが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです。業を持ちながら往生すると阿弥陀佛が語ったことがあるのを、皆さんはお聞きになったことがあるかも知れませんが、しかし嫉妬心は無くさなければ駄目です。つまり他の方面で少し足りないところがあっても、少々の業を持ちながら往生して、再び修煉してもよいかも知れませんが、嫉妬心は無くさなければ絶対に駄目です。今日、わたしは煉功者に向かって話していますが、頑迷に固執して悟らないようではいけません。あなたが達成しようと思う目的はより高い次元へ修煉することですので、嫉妬心は必ず無くさなければなりません。だからこそわれわれはこの問題を単独に取り上げたわけです」[3]

    師父は『轉法輪』の中で「嫉妬心」を特に指摘され、そして重く説かれました。私たちはこの執着心を修めることに特に注意しなければなりません。

    私たち自身が対応している宇宙天体の中に嫉妬心があると、多くの良くない物質と生命がその空間の中に存在し、常人の空間に反映して、私たちの修煉と三つのことに影響を与えて妨害するのです。

    今、学法すればするほど、よく修めていないところ、しっかりやっていない部分が見えるようになりました。大法に照らして、自分に問題が多くあることに気づき、努力しなければなりません。

   これを書き出し、同修と共に励まし合い、精進していきたいのです!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩: 『洪吟』「実修」
 [2] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「境界」
 [3] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/20/349560.html)
 
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