「求めずともおのずから得る」を体得
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年7月12日】修煉して10年近くになりました。嫉妬心を徹底的に修めようと決心してから、すでに数年が経過しました。試みと失敗を繰り返しながら、時には相当な苦痛に耐え、長く修めてきましたが、顕著な向上は見られませんでした。しかし、最近になって、ようやく少し突破できました。その経験を書いて、同修たちと交流し、切磋琢磨したいと思います

 私はずっと、自分の嫉妬心がなぜこれほど根強く、取り除きにくいものかと不思議に思いました。よく「ローマは一日にしてならず」と言われますが、自分の成長の道を振り返って見ると、この嫉妬心も一日で出来たものではないと痛感しました。幼い頃から大人になるまで、私はずっととても優秀で、皆の注目の的でした。先生や学友そして同僚までいつも私のことをおだて、そして、学業に対しても、容姿に対しても賞賛してくれました。私は地元の小さな町でとても目立つ存在でした。それが故に、私は自分に酔いしれて「他人より優秀だ」という心理を持ち、口にしてはいないものの、内心ではとても強く、そう思っていました。逆に、学友や同僚、友人、家族が自分より優れていると、心の中ではとても許せず、嫉妬していました。

 大法を修煉してから、嫉妬心を必ず取り除かなければならないと分かりました。その過程はとても辛いものでした。師父はいつも周りの人の口を借りて私の心を刺激し、私に嫉妬心を取り除かせようとなさいました。本当に一つの関門を乗り越えると、また次の関門が待ち構えていて、いつも精神的に限界を感じていました。そうした場合、私は師父がおっしゃった「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]を思い出し、大量に法を学び、『轉法輪』を何遍も暗唱して、これらの執着心を修めました。幾つかの執着心は確かに取り除かれましたが、しかし、しばらくすると、試練がまたやって来て、あの頑固でよくない考えがまた強く現れ、「他の人が自分より優れている」のを見たり、「他の人を褒める言葉」を聞いたりすると、心が刺されたように辛くなりました。「眉をひそめているよ」と、家族によく注意されましたが、しかし、私の心の中は本当に辛くて仕方ありませんでした。

 「眉をひそめる」と言うと、突然、「自分の見かけの変化も嫉妬心に関係があるのではないか」と気付きました。私は昔とまったく別人のように容姿が変わりました。顔がやつれて、肌も艶がなく、人相も変わったような感じでした。「美しい」と言う言葉はもう私と無縁となり、母親でさえ私を人の前に出したくなく、いつも「同級生達のほうがずっと素敵だ」と言っていました。ホテルや銀行に行く時、身分証明証で本人確認をされると、よく「人違いじゃないか」と言われました。内に向けて探せば、見かけに対する執着心を見つけましたが、しかし、それ以上の改善がなく、結局、その事もそのまま放置してしまいました。

 今日、この交流文章を書いている時、自分の人相が変わったのも嫉妬心によるものではないかと突然悟りました。師父は「 嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が衰弱なものになります」[2]、「この嫉妬心はくれぐれも取り除いていください。嫉妬心はなかなか恐ろしいのです。嫉妬心はあなたの全ての修煉を緩めてしまい、あなたを台無しにしてしまうのです。嫉妬心があってはいけません」[3]と説かれました。

 最近、『精進要旨』を学んだ時、突然、暗唱しようとの一念が芽生えました。そこで、私は困難を恐れる心を克服しながら、量を求めず、毎日暗唱し続けました。思いがけないことに、『精進要旨』を暗唱している中で、私は物の見方が変わり、穏やかで慈悲心が芽生え、トラブルに遭っても特に気にせず、心がとても平和になりました。嫉妬心も知らないうちにかなり弱まりました。いぜん嫉妬した人や事(長年取り除れていない)は、今すべて存在しなくなり、むしろ、彼らがとても優しそうに見えてしまい、心から彼らの為にと考えるようになりました。このような平和な気持ちはこれまで経験したことがありません。

 師父は「実は、修煉の中で、取りもなおさず少しずつ知らぬ間に修めて向上してきているのです。覚えておくべきことは、求めずともおのずから得る、ということです」、「大法をよく学ぶには、いかなる目的も抱かずに学ぶことこそ正しいのです。『轉法輪』を一遍読み終えるたびに少しでも分かるようになったら、すでに高まっています。一遍読み終えるたびに、ただ一つの問題が分かっただけでも、それも真に向上しています」[4]と説かれました。

 私はついに分かりました。以前、法を学ぶ時、いつも何かを求め、何か目的を持って学んでいました。しかも、それにはまったく気付いていませんでした。嫉妬心を取り除く為に、『轉法輪』を何遍も暗唱しました。しかし、たくさん暗唱しても少ししか覚えられず、そして、ようやく覚えたものをすぐに忘れてしまうので、心の中はいつも焦っていました。なるほど、私は暗唱するために暗唱していたのですね。よく考えて見れば、「覚えよう」とか、「しっかり暗唱する」とか、そのような気持ちも、求める心ではないでしょうか?

 今回、『精進要旨』を暗唱した時、私は穏やかな気持ちで、無理せず、出来るところまで暗唱し、忘れたらまた繰り返して暗唱しました。その結果、とても効果が良かったのです。なぜなら、暗唱する目的は、「暗唱するそのものではなく、法を得るためだった」からです。法を暗唱しても法を得られなければ、どうして向上することができるでしょうか?

 個人の次元に限りがありますので、皆さんからの慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪法解』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の経文:『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法を学ぶ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/7/350713.html)
 
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