再び嫉妬心を取り除く
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 

 明慧日本2018年5月6日】7年前私は「嫉妬心を取り除く」というタイトルの文章を「明慧週刊」に発表したことがあります。7年経った今、私はもう一回嫉妬心を取り除かなければならなくなりました。しかも同じ人に対して、同じ事で嫉妬していました。原因は私と女性同修のAさんがいろんな方面で同じではないからです。

 私たち2人は至るところで違っていました。

 私はこの数年間病業に遭い、強制連行され、警官に妨害されることの繰り返しでした。

 しかし、Aさんは何の迫害にも遭遇しませんでした。

 私はこの数年間、精進しなかった状態から精進するようになり、内に向かって探すことができない状態からできるようになり、徐々に良くなりました。

 Aさんはこの数年間常人のことに足を引っ張られ、次第に集団学法にも来なくなりました。

 私がこの数年間参加した法を実証するプロジェクトは遅々として進まず、このプロジェクトはあってもなくてもよい状況になってしまいました。

 Aさんは同じようなプロジェクトで1人で半分以上の仕事を負担しており、欠くことの出来ない重要な役割を果たしていました。

 トラブルのきっかけは以下の通りです。昨年、鉄が鋼にならないことを残念に思い、Aさんの状況を同修のBさんに話しました。Aさんはお金を稼ぐことに忙しく、精進せず、マルチ商法に騙されたうえ、アルバイトをした賃金も未払いになっていました。これらのことを聞いたBさんはAさんが経済的に困っていると理解し、他所の同修に伝えました。他所の同修はその当時、Aさんを経済的に援助しようとしました。それを知った私は事実をはっきりさせようとしました。しかし、経済的によくなると、もしかしてAさんは精進できるかもしれないと思い、黙っていました。このようにお茶を濁したまま日が経ちました。

 しかしこのことは今年に入ると更に悪くなりました。他所の同修はしばらくAさんの便りが途絶えたので、Aさんが更に生活に困り果てたと思い込み、再びBさんを通して私にAさんにお金を援助したいと頼んで来ました。私はBさんに自分の元々の考えを代わりに説明するように頼みました。しかし、今回Bさんがこの事での誤解を解きたくなくなりました。

 今日私は論争する心を持って集団学法に行きました。心の中ではAさんのことはお金の問題ではなく修煉の問題であり、お金で解決できるはずがないと思っていました。Bさんは「私たちはやはり彼女を助けるべきであり、彼女と話し合うべきです」と言いました。私は「私は行きません。もう10年も助けてあげましたが、彼女はただ大法の仕事をするだけで、心を修めていないのです。いまお金をあげたらニワトリを殺して卵を取るようなことになり、将来的に役に立ちません。しかも彼女は精進していないのに迫害されておらず、役割は誰よりも大きいのではないでしょうか? このまま現状を維持した方がいいのではないでしょうか?」と答えました。このように学法が終わるまで私は心の中で不満でいっぱいでした。

 家に戻ってから私は冷静になって、はじめから考えてみました。「私はいま、ただ彼女が私と違うからといって彼女を嫉妬しているのではないか。見た目で私はいろんな苦難に遭いながら精進している。Aさんは精進していないように見えるが、順風満帆だ。これは不公平なのか? いや、これは「修煉は路同じからず」[1]だ。私が受けた迫害は全てが表に現れたものです。強制連行されたことや、病業の関を乗り越えたことは誰にも見える迫害であるため、油断できません。Aさんは家庭での魔難が絶えず、上には親がおり、下には子どもがいて、どちらの面倒も見なければならないのです。それに発見しづらい観念や、はっきり認識できない執着に左右され、名利と情に浸かったまま年に年を重ねていました。このような気づきにくい状態はまさに迫害ではないでしょうか? 間違いなく迫害なのです。

 私はいつも功績の大きさと強制連行されたことがあるかどうかということを精進の基準にしていました。旧勢力は同修に対して密かに迫害していたのに、私はひたすらAさんがなぜ精進しないかと不満に思っていました。師父は「皆さんは修煉者であり、これは皆さんの以前のこと、かつてのこと、またはあなたの表れを言っているのではなく、あなたの本質、あなたの生命の意義、あなたが背負った責任、あなたの歴史的使命を言っているのです。このようにしてはじめて、あなたは本当の大法弟子になります」[2]とおっしゃいました。

 我々は「生まれつき」の大法弟子である以上、必ず精進すべきです。精進しないのは必ず原因があるのです。実はすべてが旧勢力の迫害が原因になっています。このような或いはあのようなさまざまな形式を取っているため人を惑わせています。

 Aさんも順風満帆ではありません。日常生活や、些細なこと、子供の通学、親の世話などに足を引っ張られ、堕ちてしまいました。どの家庭も、誰でもこのような状態なので、最も気づき難く、一番乗り越えにくいのです。 

 これらのことを冷静に考えることで物事をはっきりさせることができました。私はやはりAさんを助けるべきです。以前の私の恨みは嫉妬によるものでした。「私の修煉はこんなに難しいのに、なぜAさんは私と違うのか?」と思って、嫉妬していました。

 ここで私は旧勢力の按排を否定することに対してまた新しい理解ができました。私が精進するのは旧勢力の按排を否定することであり、内に向かって探すのも旧勢力の按排を否定することであり、私が同修を助けることもやはり旧勢力の按排を否定することです。他人が必ず私と同じにならなければならないわけがありません。誰もが師父が按排してくださったそれぞれ異なる道を歩んでいますが、いずれも大法に同化し、道は異なっても同じ目標に向かっているのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「阻む無し」

 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/3/29/363461.html)
 
関連文章