悟ったら 目眩の症状も消えた
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年5月7日】私は幸運にも2009年、法輪大法の修煉を始めました。今77歳です。修煉後、あれこれ治療しても治らなかったリウマチ、関節の病気、胃の不調が全て治癒し、大法の偉大さ、師父の偉大さにとても感動しました。

 しかし、最近になって、何度も激しい目眩(めまい)の症状が現れるようになりました。天井がぐるぐる回り、目を開けることが出来ず、全身に冷や汗が出て、ベッドに横たわってじっとしていることしか出来ませんでした。何度も目眩に襲われた後、私はもう「人生の終わり」が近づいたのではないかと薄々感じ、そして、「父は75歳で亡くなり、私と同じ日に生まれた兄も77歳で亡くなり、私もそろそろではないか……」と妄想をたくましくしました。

 このような考えが暫く続くと、頭がぼんやりして、はっきりしない状態になりました。しかし、原因は分かりませんでした。師父は「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[1]と説かれており、私は法を暗唱しようと決意しました。その後、状況は大いに改善されました。

 その過程を次に述べます。ある日、突然思いました。「自分はこれだけ長く法を学んでいるのに、法を一度も最初から最後まで暗唱したことがなく、すでに何度も法を暗唱している一部の同修と比べると、その差はどれほど大きいだろう」と恥ずかしく思いました。そして、「旧勢力は大法弟子を途中で挫折させようとしている。なのに、自分は旧勢力に仕掛けられた罠にまんまとはまってしまったのではないか?」と気付きました。

 そこで、昨年の11月10日から、私は法を暗唱し始め、現在、第七講まで暗唱しました。法を暗唱することを通して、師父がおっしゃった「老、病、死も一種の魔ですが、それも宇宙の特性を守るためにあるものです」[2]について、さらに理解を深めました。「老、病、死が一種の魔であるならば、それは私の属性ではなく、本当の自分ではなく、それは偽りの自分で、それを根絶すべきものだ」と私は悟りました。

 「老」について話しますと、年を取ると共に、私は頭が禿げてきて、耳が遠くなり、歩き方もよろよろして、よく「80幾つですか?」と聞かれるため、自分も本当に年を取ったと思ってしまいました。その後、法を学ぶことによって、「佛は、相当に神聖で、荘厳な形象をしており、多くはかなり若くて、美しい形象をしています。次元が高ければ高いほど、より美しくなります。本当の阿弥陀佛は二十歳前後の様子に見えます。観音菩薩は十七か十八歳の様子で、大勢至菩薩は十五か十六歳の様子です」[3]と分かりました。

 「それなら、私の元神も若いはずだ」と、そう思った瞬間、自分が本当に若くなったように感じ、生命力と活力が湧いてきたように感じました。

 「病」についてはどうでしょうか。修煉者には本来病気がなく、病気は実は業力によるものだと師父は説かれました。自分がいつも病気だ、病気だと思えば、その病気は本当に身体の中に侵入してきます。目眩の症状が現れてから、私はいつも目眩を恐れ、「階下へ下りるのも怖い、友達の集まりに参加するのも怖い、外で目眩が起きたらどうしよう、家にいたほうが安全だ」とばかり考えていました。それで、目眩は何度も起きました。恐れることも執着ではないでしょうか? 病気でなければどうして恐れるのでしょうか?

 師父は法の中で説かれています。「一部の修煉者は関がとても大きいと思いますが、実はそれほど大きくないのです。それが大きいと思えば思うほど、関は大きくなり、あなたは小さくなるのです。もし気にせず、気にかけなければ、緑の山さえあれば、薪がなくなる心配はなく、師がいて、法もあるのに、何を恐れるのですか? 無視すればよいのです! 放下すれば、関は小さくなり、あなたは変って大きくなり、一歩だけで乗り越えてしまいます。その難は何程のものでもありません。必ずそうなるのです」[4]。私がそう思った途端、目眩は消えてなくなりました。

 「死」につい言えば、師父はこのようにおっしゃいました。「もしある修煉者が本当に生死を放下することができれば、生死は永遠にあなたから離れてしまいます」[5]。「修煉の中で本当に法を認識した時になると、あなたはどんな心をも放棄できます。『私は既に法を得たから、もう何も恐れていません。死んでも恐れません。死んでも私が既に法を得たから、たいしたことはないでしょう。地獄に落ちることもありません。そうではありませんか。既に法を得たからです』と思うようになれば、その人の命の危険が本当になくなり、病気もなくなります。(拍手)これは本当の修煉者が表した考えであり、彼は本当にこのことを認識し、向上したから、如何なる心をも放下し、少なくともこの点において、人間を超え、人間の境地を通り抜けたのです。病気は常人がかかるものであり、病気を治す心を放下したから、病気も治りました」[5]

 老、病、死は一種の魔であることを悟った時、目眩が消滅しました。法を多く学び、法をしっかり学び、法と師を固く信じて、はじめて神の道をしっかり歩むことができると私は深く体得しました。

 具体的に三つのことを体得しました。

 一つは、揺るぎなく師と法を信じて、はじめて法の威力を体得することができます。神になりたい一方、人間のものも掴んで手放さなければ、それはいけないことです。そして、心性を正し、正念をしっかり持ち、自らを真の修煉者として対処しなければなりません。さらに、多く正念を発して妨害を排除しなければなりません。

 目眩の関門を突破させてくださった師父に感謝いたします。そして、この文章を私と同じ経験を持つ年配の同修にも捧げたいと思います。最後に、師父の詩「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[6]をもって、同修達と励まし合います。共に神への道をしっかり歩んで行けば行くほど良くなるよう、心から望んでいます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法一』「北京国際交流会での説法」
 [4] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
 [5] 李洪志師父の経文:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』
 [6] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/4/19/364281.html)
 
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