迫害が存在する原因について考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年6月21日】2017年に入ってから、明慧ネットが報道する中国各地の大法弟子に対する不当な連行や不当な判決を宣告する案件が増えるようになっています。私たちの地区でも、数人の同修が迫害によって短期間に病業の形で、この世を去りました。正法が終わりに近づき、邪悪がますます少なくなっている昨今において、なぜ突然このような迫害の情勢が現れたのでしょうか? 私たちが抱く現政権への依頼心や圓満成就の時間への執着心以外に、私は別の角度から自分の認識を話したいと思います。

 私が思うには、私たちの迫害に対する認識がまだ表面と局部に留まっていて、迫害の存在する原因やその深層の原因について、法理に則った認識が出来ていません。言い換えれば、迫害の存在に関する法理をまだ十分に理解出来ていません。そのため、邪悪は際限なく隙に乗じてくるのです。

 病業による迫害への対処方法において、数年間、同修の間では一つのパターンが形成されていると思います。ある同修に病業が現れると、他の同修は病業のなかにいる同修と一緒に学法して発正念をし、内に向けて探し、最後にその同修は病業を乗り越えました。そこで、私たちは要求や基準を満たしたと思ってしまいます。しかし、しばらくすると、邪悪はまた隙に乗じて他の同修を迫害しにやって来ます。迫害を否定するために、私たちはまた同じパターンを繰り返します。この際限のない魔難がもたらされた原因は、師父が説かれたように、「これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったこと」[1] ではありませんか!

 師父はこのように話されています。「現代の物理学は物質の微粒子を研究する時、ただ一つの微粒子を対象にし、それを分析して研究します。原子核を分裂させ、それから分裂後の成分を分析したりします。 もし、なんらかの機器があって、ある次元におけるすべての原子成分、または分子成分の全体的な現われをとらえ、その光景を見ることが出来るとすれば、あなたはこの空間を突破し、他の空間の存在の真相が見えるようになるでしょう」[2] 師父の説法から私は以下の認識を得ました。つまり、迫害を認識する際、「微粒子」を細分していくような、局部しか見ないやり方から跳び出して、表面ではなく、根本から迫害の存在する原因を探していき、法の中で自分を正して、はじめて真に迫害を解体することが出来ます。

 なぜ旧勢力は大胆に大法弟子を迫害することが出来たのでしょうか。師父はこのように教えられています。「これに二通りの情況があります。一つは、大法弟子の中で一種の考えが現れたと旧勢力は思ったのです。つまり、大法を修めれば保険をかけたかのように、何も恐れることなく、死ぬことも病気になることもなく、あれこれになることがなく、しかも皆福のある人だという考えです。しかし、この心が生じると厄介なことが起こります。旧勢力は自分がやろうとすることをするので、無意識のうちにそれらの按排を認めれば、あなたを管理する口実を持つようになり、あなたに各種の危険をもたらします」、「旧勢力が自分のやりたいことをやることが出来たのは、皆さんがそれらのやろうとしていることを黙認したからではありませんか?」[3]

 師父の説法を学ぶ中で、私は迫害の存在には三つの方面の原因があると認識しました。

 大法を修煉すれば、保険をかけたと思う人心があること

 自分にはこのような心はないと思っていました。実はないのではなく、それがあまりにも深く隠されているため、意識出来なかっただけでした。最近の私はとてもだらけていて、三つのことをきちんと実行出来ず、この状態から脱皮しようと思いながら、自分を押さえ付けるある種の見えない力を感じてどうしても抜け出せず、大変悩んでいました。時には、このように自分を慰めました。「7.20は正々堂々と乗り越えてきた。江沢民告訴もやった。以前は、三つのことを良くやっていて、最近になって少し気が緩んでいるだけで、大きな問題はないはずだ!」。法からひどく乖離しているこのような認識を持つことは非常に危険で、これは正法修煉を根本から理解していないことになります。修煉によって良く出来た部分は既に隔離されており、残りの良くない部分は引き続き修めていかなければなりません。「私は圓満成就において問題がないから、安心してよい!」という認識は人心によるもので、根源にあるのは衆生を顧みない極端な利己心です。このような認識を持っているなら、その保険は本当に効くでしょうか?

 知らず知らずのうちに 旧勢力を認めてしまったこと

 私たちはよく旧勢力を否定し、その一切の按排を認めないと言っていますが、それは口先だけでなく、法を深く理解し着実に修めて、はじめてやり遂げることなのです。旧勢力を認めないと口にしながら、往々にして私たちは常にその思惟に従った言動をしています。この情況はとても普遍的です。

 ある同修からこのような話を聞きました。ある日、彼女は突然明慧ネットが開かなくなり、「これは旧勢力の妨害だ。旧勢力を絶対に認めない!」と考えて、発正念を始めました。しかし、正念をいくら発しても、やはりネットに繋がりませんでした。そこで彼女はプロバイダーに電話をかけ、やっと自分が支払いを滞っていたことに気づきました。

 第19回目の共産党大会の開会中のある日、ベランダにいた私は遠くから1台のパトカーが疾走して来て近くに止まり、警官が降りてこっちのビルに向かって歩いて来るのを見ました。私はすぐに玄関をきちんと閉め、緊張しながらその警官の動きを見守りました。結局、その警官は一階の売店で用事を済ませてから、すぐに離れて行きました。

 馬鹿げた話に聞こえますが、そこに、ある誤った思考形式が反映されています。つまり、問題が現れたら真っ先に思いつくのは旧勢力や迫害であって、修煉や大法、あるいは衆生を救うことではありませんでした。多くの場合、私たちはこのような思考形式で物事を考えています。問題が現れたとき、もし私たちの第一念が旧勢力による迫害だと考えるのであれば、それ自体は旧勢力を認めているのです。これでは内に向けて探し、迫害を否定するためにいくら努力しても、それは迫害を認めながら迫害に反対することなので、大法の基準に達することが出来ません。

 師父はこのようにおっしゃっています。「修煉の中で魔難に遭ったら、自分自身を修め、自分自身を見るべきです。これは旧勢力が按排した魔難を認め、それらが按排した魔難の中でいかに良く行なうかのことではなく、こういうことではありません」[4] 以前、私はこの説法をずっと理解出来ず、今やっと少し理解出来ました。師父が大法弟子に按排して下さった修煉の道はまさに、自分を良く修めて衆生を救い、問題に遭遇したら自分を修めることを真っ先に思い、法に符合しないところを見つけて法の中で自分を正し、縁のある衆生を救っていくことで、「私は旧勢力にどんな隙に乗じられたのか?」と考えるべきではありません。旧勢力のことを全く考えなければ、知らず知らずのうちに旧勢力を否定し、一掃することになります。

 問題に遭遇したら、私たちはひたすら師父を信じ、大法を信じ、自分を清め、衆生を救っていけばよいのです。これこそが私たちの正しい思惟方式で、私たちはまさにこのような生命なのです。

 衆生を救うことや法を実証することより、個人の向上により強い願望を抱き、問題にぶつかる度に真っ先に自分の向上を思い、絶対に向上のチャンスを逃すまいという考えは利己的で、個人修煉の次元に留まっているとしか言いようがありません。私たちが内に向けて探し、自分を修める目的と出発点は大法に同化するためであり、より多くの衆生を救い、師父が求められていることをよりよく円融していくためです。

 旧勢力の按排を黙認したこと

 旧勢力の按排を黙認する現象はとても普遍的です。時には大法に従えばどうすべきか、はっきり分かっていても、どうしても人心に影響されて旧勢力の按排のままに行動してしまいます。私たちの法に符合しないすべての言動は旧勢力の按排への黙認なのです。

 なぜ私たちは大法の要求に従って行なうことが出来ないのでしょうか? 私たちには人心が多く、着実に修めておらず、さらに言えば、私たちの学法に問題があるからです。法理をしっかり心得ておらず、真に法に同化出来ていなければ、単に人間の意志に頼っていれば、どうして旧勢力が操る執着心に抵抗出来るでしょうか?!

 一部の同修は自分の問題に気づいたとき、「内に向けてどう探すべきか、どう修めるべきか分かりません。とても焦っています!」と言います。実は、それは法をしっかり学んでおらず、本当に法を得ていないからです。

 ある同修は次のような体験をしました。以前、彼女はいつも家族の同修と対立し、常に相手の不足を見て、内に向けて探すことが出来ませんでした。法を暗記し始めてから法理が絶えず現われ、内に向けて探すことが分かり、目に見えた他人のよくない振る舞いも、自分を修める鏡だと分かり、その後、家庭の環境はよくなりました。

 私にも、これと似たような体験がありました。2003年に労働教養所から出て来た私は、元の勤め先から不当に解雇されたため、地方に行って新たな仕事を見つけました。見知らぬ場所に来て、同修とも連絡が取れず、明慧ネットも見ることが出来ない私には、1冊の『轉法輪』と3編の師父の経文しかありませんでした。仕事以外の時間に私は大量に学法し、その後、法を暗記し始めました。多くの困難を克服し、法を暗記し終えたとき、法理が絶え間なく現れて、私は師父にますます近づいていると感じ、師父を思う度に涙が流れました。当時の私も内に向けて探すことを知りませんでした。しかし、問題に遭遇し、脳裏に常人の考えが現れる度に、それに対応する一段落の説法も脳裏に現れ、私はすぐに常人の認識をはっきり見分け、その段落の説法に従って行なうことが出来て、自分の向上も非常に速いと感じました。当時の私は座ったらすぐに入静出来て何の雑念もなく、身体の存在もまったく感じず、いくら感じようと努力しても感じることが出来ませんでした。常人の仕事や他の事を処理するとき、常人の次元における法理に従って行なうことが出来て、とても自由自在で「意のまま」の状態にいました。毎日のように師父を思い、法理を考え、楽しさだけでした!

 その後、旧勢力は何度も悪人を操って私を迫害しようと企みましたが、失敗の連続でした。なぜなら、師父が迫害を認められず、旧勢力の大法弟子に対する迫害もきっと成功しないと私は知っているからです。当時、旧勢力の私に対する迫害の毎回の思考の全過程が私には見えたので、私はそこに陥ることはありませんでした。本当に師父が説かれたように、「実はご存知かと思いますが、釈迦牟尼佛であろうと、他の神佛であろうと、彼らには牛や馬の考えまで分かっており、更に次元の低い生命の考えまで分かっており、全てを知り尽くしています。しかし、彼らはその次元に入ることはありませんが、ただ何でも知っています」[5] 当時の旧勢力はまるで私の目の前でゲームをやっているようで、非常に智慧が限られていました。それがどんな演出をしようとも、私の心は動じませんでした。それがまったく大法弟子を迫害することが出来ないと私には分かるからです。私はひたすら自分の執着と法に符合しない部分を探し、法の中で自分を正し、そして、それを一掃するように発正念をしました。そうすれば、いわゆる按排も自然に解体されました。このような事は何度もありました。

 今私が認識したのは、大法弟子の中にみられるすべての問題のもっとも根本的な原因は、私たちが法をしっかり学んでいないからです。法をしっかり学んでいれば、どんな問題の解答も大法から探し出すことが出来ます。「大法は創世主の智慧です」[6] 正法修煉の中で私たちが出遭う一切の問題が、解決されないはずがあるでしょうか?

 また、学法に問題が存在していることにおいて、正法修煉の中で、師父がなぜ弟子たちに再三に学法するようにと強調されるか、その真義を私たちはきちんと理解しておらず、学法の重要性とこの新しい修煉形式における学法の意義を真に認識していないからだと私は思います。一部の同修は佛教の経書を読むように学法し、毎日読めばそれで任務を達成したというふうに認識しています。自分自身の学法の状態をみてみればよいのです。『轉法輪』を読み終える度に、今の自分は半年前または1年前と比べて何の新しい認識を得ていなければ、その間、自分が大法の仕事を行なうばかりで、法理の認識においてまったく向上していないことを物語っています。これは大きな問題ではありませんか!

 師父はこのようにおっしゃっています。「『轉法輪』を一遍読み終えるたびに少しでも分かるようになったら、すでに高まっています。一遍読み終えるたびに、ただ一つの問題が分かっただけでも、それも真に向上しています」[7] 本を読み終えて何も分かっていなければ、私たちは向上できるでしょうか? 師父がなぜ『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』という経文を発表されたか、今やっと理解出来ました。私たちの学法において、本当に大きな問題が存在しているからなのです!

 以上は個人の現段階における僅かな認識に過ぎません。法に符合しない部分があれば、同修のご指摘をお願いします。

 注:

 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」

 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 [3] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」

 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇三年カナダバンクーバー法会での説法」

 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」

 [7] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法を学ぶ」

 

 

 

 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/1/3/359137.html)
 
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