文╱海外の大法弟子
【明慧日本2018年8月13日】最近、同修の間に誤字を重視しないという問題に関する手紙が届きました。中には次のような内容が書かれました。
「ある中学校の国語の先生から聞きました。『あなた達が言っていることは本当のことかもしれませんが、しかし、あなた達の文章力はイマイチです』。この先生の言葉は私の注意を惹きました。そこで、毎回、法輪功の資料を配る前、必ず自分がこれから配る資料に何が書かれているかを細かく確認するようにしました。確かに、私達の文章には誤字や間違った語彙がよくあり、全く違う意味の言葉も使われていました。中国共産党の宣伝文章と比べれば、私達は確かに文章の完成度を軽視しているのではないかと思います」
ここまで読んで、私は人の身の処し方を思いだしました。中国には「文は人なり」という言葉があります。それは宋の蘇軾(そしょく)の『答張文潜書』という書物の中から出てきた言葉で、つまり、文章の趣が筆者の性格や思惟の特徴と似ているという意味として、古くから中国の人々に使われてきました。西洋にも昔から文章の書き方を重視する風潮があり、それは筆者の素養や教養の一部とみなされていて、人は自分と同時に他人をも尊重しなければならないからです。
考えて見てください。心の穏やかな人は話す時も文章を書く時も、その穏やかさが出るでしょうし、いい加減な人は文章を書いても、そのいい加減さがどこかに顕れるでしょう。人を尊敬してはじめて優しい文章が書けるし、自我や顕示心の強い人はそのように行動するでしょう。頭脳の明晰な人と反対に、考えがはっきりしない人の文章は、きっと歯切れが悪く、筋道が通っていないに違いありません。
そのほかに、同修は手紙の中で、「文章は人の身だしなみのようなものです。浮浪者と同じような格好をすれば、いくら素敵な人でもかっこ悪く見えるでしょう」と書きました。私達は文章を書く時、嘘を言わず、現実を覆い隠さず、大げさな言葉を使わないようにしなければなりません。私達は正しく、適切に、丁重に大法の素晴らしさを世間の人に見せなければなりません。
誤字の問題に関して、時々、私達は重視せず、大した事ではないと思いがちで、時間がなく、もっと重要なことがあるから、内容さえ良ければいいと考えてしまうかも知れません。しかし、現実の中では、私達は自らの立ち居振舞いをどう見るかはともかく、他の人から見れば、それは私達の生活や仕事に対する態度、私達の勤勉さ、責任感の証となるのです。小さなことも大きなことも、すべてしっかりと行なって、真相を伝える時、はじめて説得力があるのです。文章の誤字をなくすことは、自らの行動を慎むだけではなく、さらに編集者、読者、他人に対する尊重でもあるからです。「よい人に、さらによい人になる」には、普段、コツコツと小さなことから積み重ねていかなければなりません。
同修は手紙の中に、「文章を書くのは難しくありません。高い学歴も必要ありません。もちろん学歴があればなによりですが、実は話ができれば誰でも文章を書けるのです。書き終わると、何度も読み直し、読み直しているうちに、ここの意味が違う、この文が通じないと気が付くでしょう。そこは直すべきところです。この『秘訣』は、地元の有名な高校の国語の先生が作文の授業で学生に教えた内容です」とも書かれていました。
私達大法弟子はさらに努力して、師父が説かれた「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[1] に到達するよう、絶えず自らの品行を修め、大法の正しさと素晴らしさをしっかり実証するように頑張りましょう。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」