師と法を信じることが根本である
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文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2018年9月8日】今日、昼食を取りに家に帰った時、私は夫(同修)のどんどん痩せていく姿を見て心が動じてしまい、常人の解決方法を考え始めて、気分も優れませんでした。

 午後、出社してから私はまったく仕事をする気がなくなり、ずっと考え続けました。考えているうちに、突然、自分は心の底から師父を信じていないことに気づきました! 私は続けて考えました。「師父は本当に私の面倒を見て下さっているの? 師父は本当にそんなに偉大なの? 本当に何でもできるの? 私はなぜ師父を信じなければならないの? 今回の状況が現れた後、私の第一念は人間の念で、その後に師父を思いついたのだ。それにここ数年、関を乗り越えることができず、あるいは何とか乗り越えた場合の主な原因は、私が師父を信じず、師父が何でも出来るということを信じなかったからだ。長年修煉してきても、私には他の空間が見えず、何の感覚もなく、師父に会ったこともないので、何を根拠に師父を信じるの?」。そう思った瞬間、私は自分が完全に崩れてしまったと感じました。それで私は何もしたくなくなり、仕事を置き早めに退社しましたが、心がすごく苦しくなりました。

 家に帰ってから私は心を鎮め、修煉の初めから自分を整理し始めました。1999年に私が不当に連行され監禁された時、見舞いに来た夫はこう聞きました。「この法は本物だと思いますか?」。私は「本物でなければ、私は頭を壁にぶつけてこの場で死にます」と言いました。夫は「真偽はさておき、あなたは死を選ばないでくれ。とにかく私はずっとあなたを待つから、自分を大事にして」と言いました。今考えてみれば、私はその時からすでに法に対して確信を持たなくなったのです。その後、警官はよく私たちを殴るので、恐れを感じた私は警官に蹴られないように、外に座ることを避けていました。師父に対する信念が揺らぐ都度、私はいろんな理由を探し、法に対して固い信念を持たせてくれるものを探して、自分を励ますようにしていました。例えば、「私の病は確かに治ったよ! 法会が開かれる期間中、あれだけ多くの人の質問に対して、師父は必ずその場ですぐに回答をなさった。常人にはできるの? 国内外において、あれだけ多くの人が学んでいるので、この法は間違いなく本物だ」。また、私には一つのはっきりした感覚があります。1999年のとき、毎回、関を乗り越える直前は不安でしたが、関を乗り越える時点になると、正念がすぐに強くなりました。師父が助けて下さっていることを明らかに感じていました。

 正法修煉の道を19年間歩んで来て、今まで使って来た、師父を信じさせてくれる如何なる理由も効かなくなったと私は気づきました。しかも、まさにそれらの理由によって、私は師父を真に信じることが出来なかったのです。それらの理由はまったく頼りになりませんでした。

 ある弟子はこのような質問をしました。「古くからの学習者の大法に対する最も深い体得は法に対する堅い決意と師父に対する信念です。堅い決意と深い信念はどういうことから由来しているのでしょうか? この問題は主人を長く悩ませています。どのように修めたら、大法に対するこの上ない堅い決意が出来上がるのでしょうか?」[1]

 「師:信じることと信じないことは人間の理念であり、私はあなたに何かを与えたからではなく、何かの手法で何かの状態に達するということでもありません。大法弟子は皆大法に対して堅い信念を持っています。大法弟子にとってこれは一つの形容ですが、彼らの大法に対する固い信念は理性から認識したことによって堅く信じるようになったのであって、何かの要素が人間に作用してそうなったのではありません」[1] 「大法弟子の正しい信念は神の状態であり、真理に対する理解と悟りによってもたらされたのであって、修煉して出来上がった一面の神の状態であり、決して何らかの外的な要素が作用できるようなものではありません。堅い信念のために堅く信じるのではなく、堅い決意のために堅い決意を持つことはできません」[1] 「学習者は皆法理の認識から昇華してきたから、ここまで精進するようになり、大法に対してそれほど堅い決意を持つようになったのです。これは外的な要素によるものではなく、何かの方法を勘案してできるようなことでもありません」[1]

 この部分の経文を読んでから、 私は人間のものは大法の中において立脚点がなく、人間のいかなる理由も、師への固い信念をもたらしてくれないことが分かり、師を疑わないようになるにはどうすればいいのかと自問しました。

 「真に大法を修し 唯此れだけを大と為す 大法に同化し 他年必ずや成る」[2]  私は「唯此れだけを大と為す」ができましたか? 常人のことであれば大法を脇に置いておき、常人のことを済ませてから学法したのではありませんか! 心の中で、私は大法を首位としておらず、大法を大切にしておらず、大法を重視することもしてきませんでした。もし私は大法を自分の命よりも重要だと思っていたならば、学法を重んぜず、煉功も重んじないような行動をとらなかったはずではありませんか? 怠けたりしないはずではありませんか? これが根本的な問題です。何かがあれば大法に求め、師父に求め、得られなければ怨む気持ちを生じさせ、これが修煉を辞めたり、邪悟してしまった人たちの根本原因ではありませんか?

 では、どうすれば師父を疑わないようになれるのでしょうか? 「求める心」[3] を放下するしかなく、「求めずに自ずから得る」[4] になり、多く学法するしかありません。関を乗り越える時、まさに自分が信じているかどうかが試されているのです。師父はこのようにおっしゃっています。「悟りが先にあって見えるのは後のこと」[5]  、「悟りによって圓満成就します」[5]  、「その心を正そうとするには、まずその意を誠にすること」[6]   正に、この通りです。

 人間社会の迷いの中で修煉するには、師父が大いに神通力を顕現され、あなたに信じさせることはありません。悟りに頼るしかありません! 無条件に信じるしかありません! 条件があれば漏れがあることになります!

 今、私は毎日新しい認識を得ることができ、毎日自分の不足を見出すことができます。正法が終わりに近づいているのに、私にはいまだ多くの人心があり、根本にも問題が存在していることを見られた師父は、私を悟らせて下さっているから出来たことだと思います。私が自分の問題点に気づきさえすることが出来れば、師父はすぐに私が知るべき理と、取り除くべきすべての心を教示して下さいます!

 意気地がない弟子のせいで、師父は心労されています。師父のご恩に感謝します!

 以上は現段階での認識です。法に沿わない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の
著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「法を得る」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [4] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「何のために見えないのか」
 [6] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/3/373300.html)
 
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