明慧ネットに投稿することも修煉の一環である
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年5月30日】修煉体験を書いて明慧ネットに投稿する話に触れると、多くの大法弟子は気後れして、書きたくないと言います。一部の大法弟子は「自分はあまりよく修めていないので、書くものがない」、「恥ずかしくて書けない」と思っている大法弟子がいます。一部の大法弟子は「自分に文才がないので上手く書けない」と思っています。また、一部の高齢の大法弟子は学校へ行ったことがなく、字を書くことが出来ず、人の手助けが必要です。

 高齢の大法弟子を除いて、同修たちは交流文章を明慧ネットに投稿することが、修煉の一環として重要な部分だということを理性的に認識出来ていないのだと思います。

 師父は集団学法、集団煉功、修煉体験を交流する大法弟子の修煉体験交流会、このような形式を私たちに設けてくださいました。その形式は私たちに「比べて学び 比べて修める」という良好な修煉環境を形成出来、それによって互いに、より早く向上出来る保障でもあります。もし1999年7.20以前に、大型の修煉体験交流会を行なうとなれば、大勢の大法弟子が奮って参加していたでしょう。なぜなら、それは大法弟子が慈悲なる偉大な師父に自分の答案を提出し、師父に恩返しをすると同時に、大法を実証し、世の人に大法を広める一つの機会でもあったからです。今は、ただ交流会の形を変えて、明慧ネットに投稿する形式で行なっているだけです。しかし、意義と重要性に変わりはありません。もし私たちが参加しなければ、自分の修煉過程の一部が欠けてしまいます。常に他の人の文章を読み、ある程度、人との距離を気づかされ、人の経験を参考にすることは出来ますが、自分の法理に沿った認識や、心性の昇華が実質的に飛躍することは出来ません。

 原稿を作成する過程は、実は修煉と同じように自分を高める過程でもあります。原稿を書く時、法理に対する認識が絶えず昇華していき、心性の関を乗り超えた経過を詳細に振り返った時、当時、認識出来なかった法理が書く過程で新たな認識を得るのです。また師父のご加持は絶えず新しい法理を気付かせてくださいます。

 書き終えた後、検討する過程も自分自身を見つめ直す過程です。文章に用いた語句に邪悪な党文化に染められたものがあるか否かを見直します。修正する過程は即ち、正念をもって自分の思想の中の中国共産党の邪霊の要素を取り除く過程でもあります。自分は本当にやり遂げるかどうか、誇張して似て非なる時、心性が純粋であるか、宇宙の特性「真・善・忍」に符合しているか、大法を利用して自分自身を実証しているのではないか、名を求める心、闘争心、顕示心、恨む心、嫉妬心はないか、同修を傷つけてはいないか、同修の受容力を考慮したのか、書いた内容は大法弟子全体の向上を促す効果があるのか、法を広めるにあたって、大法を実証し、衆生を救い済度することに有利なのかなどを見極めることが出来ます。

 書き終えた後投稿する時、どんな心理状態なのか、もし掲載されることを望むのであれば、その期待する心は執着心ではないでしょうか、不純ではありませんか?

 また、掲載された後、どんな心理状態なのか、歓喜心、顕示心を生じたかどうか、同修の感情を損ねる恐れる心がないかを自問してみます。もし、本当に同修の誤解を招いてしまった場合、自分の心性をどのようにコントロールするのか、同修の皮肉な批判、或いは称賛の言葉を聴いて、心が動じるかどうか、投稿した文章が掲載されなかった時、自分はどのように反応するのか、失望する、興ざめする、憤懣やる方ない、嫉妬心や恨む心があるかどうかを自省しなければなりません。

 私自身、以上に述べたような心性の試練を経験してきました。自分の心性は原稿作成から投稿、掲載されるまでの過程を通じて、大いに向上することが出来ました。法理の認識もより一層深めることが出来ました。私にとって、もはや、原稿を提出するために原稿を作成するのではなく、この過程は真に自分を高める機会と見做し、同修たちに囲まれて、まるで同修と面と向かって交流しているかのように、本当の自分の感想を発表する過程なのです。自分の交流体験が明慧ネットに採用されるか否かは全く考えず、ただ単に自分の感想を伝えるだけです。また自分の投稿した文章が明慧ネットに掲載されたことはいつも同修を通じて知りました。このことは師父がおっしゃった「求めずともおのずから得る」[1]の法理を実証しているのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法を学ぶ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/4/3/384683.html)
 
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