文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年6月12日】ここ数年、地元の数人の同修が病業で亡くなりました。それを聞いて、心の中では致し方のないことであり、とても辛くて悲しいです。修煉中の人に執着心があり、その隙に乗じて命を奪うのは、衆生を救うことへの大きな妨害だと思います。
病業の関にいる同修は誰でも体に不快な感じがあり、甚だしきに至っては激しい痛みに耐えなければならないでしょう。しかし、多くの人はその痛みに耐えることができず、関門を突破することを放棄し、病院に行ってしまいました。しかし、病院に行った後、自責の念に陥り、一部の人は恥ずかしく思い、更に別の執着を作ってしまいました。その結果、難が長引き、自信を失い、とうとう命を失ってしまいました。
以前、私はある半身不随の同修(すでに死亡)と交流したことがあり、彼女は痛みに耐えられず、病院に行きました。もう1人の同修(すでに死亡)は腹部が膨張し、それに耐えられず病院に行きました。またある同修(すでに死亡)は痔になり、その痛みに耐えられませんでした。もう1人の同修は下半身が痛くて、数年経っても改善の兆しがみえず、結局病院に行きました。同修達は皆旧勢力の迫害を認めてはいけないと分かっていましたが、痛みを恐れ、毎回痛くなった時、落ち着いて発正念をすることができず、いつも自分の痛みは他の病業を乗り越えた人の状況とは違うと考えていました。
師父は「修煉は路同じからず すべて大法の中に在り」[1]と説かれました。関門の形式はそれぞれ異なりますが、しかし、取り除くべき人心は同じです。痛みを恐れるのも執着心です。神は痛いと感じた時、眉をひそめ、体を揺らしながら発正念をしないでしょう。また発正念の口訣を念じながら、心の中で痛みがどうして軽くならないのだろうかと考えないでしょう。このような状態では、どうして自分を迫害する邪悪の要素を一掃することができるでしょうか? 激痛の中でも、山のごとくビクともせず、発正念をし続け、その関門を乗り越えてきた同修の事例も少なくありません。
私自身もこのような痛みを経験しました。激痛は1秒も休むことなく襲ってきて、どんな姿勢をしてもその痛みは軽減しませんでした。心の中で旧勢力を否定しても効果がなく、内に向けて探そうとしました。その時、師父の法が脳裏に浮かんできました。「あなたが本当にこれをやり遂げることができれば、口先で言うだけではなく、行動においてこれをやり遂げることが出来れば、師父は必ずあなたを支持します」[2]
発正念をする時、「体がゆらゆら揺れても、これは旧勢力を認めたことになり、この痛みを私は決して認めない、旧勢力が無理に押し付けてきたこの痛みを私は感じない、ひたすら旧勢力を否定する!」と、私はこのように考えました。それからは、いくら痛くても、背筋を真っ直ぐにして座禅し、体をゆらゆらさせず、痛みが体の中で暴れ回るのを静観しました。すると、痛みは軽減しませんでしたが、それに耐えることができるようになりました。
こうして、激痛の中で私は30分間発正念しました。とても疲れを感じました。そこで、師父に少し休ませてくださいとお願いしました。結果、目が覚めた時、師父はその邪悪を私から取り除いてくださいました。どの人心がこの痛みをもたらしたかを私はまだ見つけていないにもかかわらず、ただ痛みを恐れないという気持ちだけで、師父はそれを取り除いてくださいました。
このことから、病業の関を乗り越える時、旧勢力を否定し、押し付けられた痛みを否定し、その痛みに動じることなく、心が安定していれば、関門を突破したことになるのではないかと悟りました。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「阻む無し」
[2] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』