文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年6月9日】少し前から、迫害の存在を黙認する考えがよく頭を過ぎりました。例えば、パトカーを見るや否や、自分はいつかパトカーに乗せられるだろう、派出所の前を通るだけで自分はいつか派出所に連行されるだろうと考えてしまいます。頭から出てくるのは全て自分がどのように迫害されるかという考えばかりでした。普段は、自分の一思一念を修めることを常に念頭に置いているため、良くない考えが顕れると、すぐ否定して、この迫害の存在を全面的に否定することができるのですが、最近、これら迫害を認める考えが頻繁に顕れて、私はかなり困惑に陥りました。
ある日、自分は内に向けて探さなければと気づき、何故そんなに緊張するのか、何故一秒も待てないほど、すぐこの迫害を認める考えを否定せずにはいられないのかについて考えました。勿論これらの考えを否定することは当然であり、しかも直ちに否定すべきですが、自分は何故緊張してしまうのかについて自分の執着心を少し深く掘り下げてみました、すると下に隠れていたこの巨大な恐怖心が見えました。つまり、もし直ちに否定しなければ、これらの迫害の存在を認める考えが旧勢力に隙に乗じる機会を与えてしまい、自分が迫害されることを恐れているのです。しかし私はこの恐れる心をみつけた後、恐れる心がいっそう強く反映するようになりました。廊下での足音や話し声に対して、たまらなく恐怖を感じるようになったのでした。それと同時に自分の家が少し前から監視されていることにも気づきました。私は発正念を強めました、特に恐怖心と迫害の存在を認める心を取り除くことに集中して、発正念の力を強めると同時に、絶えず内に向けて探すと頭がスッキリしました。
今までずっと自分の一思一念を見逃さなかったと思い、その上自分の頭の中にある、迫害を黙認する概念を否定しさえすれば、それでよいのだと思っていました。しかし、振り返ってみれば、自分の一思一念すら把握できていなかったのでした。例えば、自分は若者なので警官に目をつけられているため、自宅の団地の守衛室を通る時に無意識に守衛や警官の配置を確認し、監視カメラを避けて歩き、資料を持参して守衛室の前を通る時に内心が緊張し、同修の家に出かける時に足音を少し大きく立てただけでびくびくし、常人に直接真相を伝える時に、相手の人相を見て選択する等々、これらの考えは皆迫害の存在を認める考えであることは認識できていましたが、しっかり否定できる時と、そのまま見過ごしてしまう時がありました。しかし、最も肝心なのは、これらの考えの裏にあるあの巨大な迫害されることを恐れる心が隠されていることに気づきませんでした。
更に進んで探してみました。何故、長い間、恐怖心が未だに存在し、いつも私から離れないのでしょうか? まず、私は確実に修めていないことが明らかです、そして、発正念を重視していません。師父が発正念をすることを要求され始めてから今まで、発正念をする時に私は殆ど清浄心を保つことが出来ず、頭の中は雑念で一杯です、更に「何れにしても私は三つのことを考えているのでいいではないか」という一念を持ち(今はこの一念が間違いだと知りました)、「三つのことは雑念ではない」と考え、十数年ずっとこの状態でした。座禅する時も含めてこの状態はずっと1年前まで続いたのです。ある日、ベッドに座って座禅しながら、「これも執着してはならない、あれも執着してはならない、人類社会のすべては執着だ、全部放下しなければ」と考えていました。足を崩した瞬間、発正念の時の自分は主意識がはっきりしていなかったことに気が付きました。私は発正念と座禅をする時に、頭の中は雑念ばかりでした。主意識はどこへ行ったのでしょうか? 発正念は主意識が意念を用いて、功能を駆使して他の空間で邪悪な生命を取り除くのですが、私の主意識は自分の身体におらず、行方が分かりません。大脳は雑念に支配されていました。これでは発正念と言えるのでしょうか? その時から私はやっと、脳裏にある雑念を積極的に抑制するようにしました。今は、正念を発する時に、主意識を集中させ、雑念に妨げられそうになれば、直ちに主意識を強めます。煉功する時に主意識を主に煉功音楽と師父の号令に集中させ、雑念に妨げられそうになれば、すぐに主意識が流されないよう強めることにしています。
この文章を書くことを暫く躊躇していましたが、今の自分はまるでまだ確実に修煉し始めたばかりで、入門したばかりのようなのです。同修の皆さんに時間を割いて読んでいただくほどの内容が書けませんでした。ただ、まだ主意識がはっきりしてない同修のヒントになれたらと思います。