【明慧日本2019年4月13日】長年修煉してきて、私は師と法を固く信じ、真に修めているとずっと思っていました。毎日法を学び、煉功し、5式の功法を毎回完全にすることができなくても、また、真相を伝えることが上手だと言えなくても、しかし、一応するべきことはしてきました。
しかし、時間が長くなると、自分は法から隔てられ、何かに妨害されているように感じ、それは本当に修煉させません。「それはいったい何ですか?」と私はいつも探していました。時には多くの人心を見つけ、例えば、マイナス思考や嫉妬心、闘争心、色心、利益に対する心、傲慢な心、怠惰な心などを見つけました。その後、それらの人心を見つけると、私は直ちに正念を発し、一掃しました。
正念を発すれば、しばらくの間、確かに人心が少なくなり、正念も強くなりました。しかし、数日後、これらの執着心はまた捲土重来(けんどじゅうらい・or けんどちょうらい・一度敗れたものが再び勢力を取り戻す)し、場合によっては、もっと強くなって戻ってくるのです。そして、法を学びたくない、煉功をしたくないという現象が必ず起きました。このような状況が長期的に何度も繰り返されるうちに、私はどうすればいいのか分からなくなり、悩み、落ち込み、時には、修煉をやめようという考えすら芽生えました。
最近、心を落ち着かせて師父の説法を聞いていた時、ふと、「自分はいったい何のために修煉を始めたのか?」と思いました。師父は「修煉にはいかなる条件も付けてはいけません。修煉しようと思い立ったら、修煉を始めるべきです」[1]と説かれました。大法の修煉を始めた理由は、大法の素晴らしい法理に心を打たれ、師父の分かりやすい説法が春風に頬を撫でられたように清々しい気持ちにさせてくださったからです。私には不純な動機はないと思っていました。
しかし、もっと深く探ってみると、自分が認めたくない、不純物の存在に気が付きました。それは自分が自らの境遇に不満を持ち、大法の中で自分の憤懣(ふんまん・いきどおる)やるかたない心を静めようと思い、そして、常人に「あなた達が競い合って手に入れようとしているものは、私は手に入れられないのではなく、ほしくないだけだ」という姿勢を見せたかったのです。大法を利用しようとするこの汚い心は長年ずっと深く隠れていました。
時間が長くなるにつれ、大法を利用したいという心は絶えず膨らんでいきました。例えば、身体に病業の仮相が顕れた時、私は煉功を通して病気を治したいと思い、大法からご加護をいただきたく、子供に「法輪大法は素晴らしい」と念じさせました。そのため、自分が期待した結果が得られない場合、すぐに落ち込んで、意気消沈してしまいました。この不純な動機があったからこそ、私は法に溶け込むことができず、法との間に隔たりができ、いつも人心をもって修煉に対処し、本当の修煉者になれず、修煉状態も良かったり悪かったりしました。
もう一つは、自分自身の党文化に対する認識不足の問題でした。私はずっと自分だけには党文化があまり身についていないと思っていました。なぜなら、私はそもそも政治に興味がなく、むしろ反感を持っていて、その上、中国共産党に入党していないため、党文化とは無関係のはずだと思っていました。ここまで書いて、ふと、「当初、私は本当に政治に興味がなかったのか? それとも、政治の世界に入って出世ができなければ、人に馬鹿にされるのを恐れていたのか?」と、自らの深層心理をみつめ直しました。
『党文化を解体する』と言う本を真剣に読んで、私は驚いて冷や汗をいっぱいかきました。自分の話すアクセント、キツイ言葉遣い、人を威圧する話しぶりなど、それらは全て党文化そのものではないかと思いました。これらの問題を認識すると、私は強い正念を発して自分の空間場を一掃し、師父にご加持をお願いしました。そして、自分の一思一念を常に注意するようにしました。
この時、それらの腐敗物質は確かに存在し、しかも、確実に生きていると感じました。なぜなら、私の主意識が強くなると、それらのものはすぐに隠れてしまい、主意識が弱くなると、それらは堂々として現れ、いいものなのか、悪いものなのか、区別できないように頭を混乱させるのです。今、これらの腐敗物質が頭に顕れると、僅かなものでも、私はすぐにそれを掴み、一掃し、逃さないようにしました。こうしてしばらく続けていると、今までぼーっとしていた頭がはっきりとして、心も穏やかになり、学法も煉功にも積極的になり、法を暗唱するスピードも上がりました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』