「他人を変えたい」について語る
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2020年2月7日】私は中国の大法弟子です。普段、身の回りで接触するのは、ほとんどが母親と同じ年齢層の女性同修ですので、小さい頃から同修の前で自分は法に対して深く理解できておらず、知っていることも少ないと思い、無意識のうちに「大人の話を聞く」という習慣が身につきました。しかしある時期から、一部の同修の法に合わない言動をいつも目にし、ひいては常軌から外れているように感じはじめました。突出した例としては、よく他人の不足を指摘し、あなたはこのようにすべきであるとか、あるいは誰々はこのようにしなければならないとかと意見を出し、甚だしい場合には叱責するのです。そのうち自分でも、不満や抵抗する感情が生じて来て、頭の中でよく愚痴を考えたりします。この同修はどうしていつも法に則らずに他人の不足ばかりを探して、もっぱら他人を修め、自分をまったく修めないで、自分自身がどこまで外れているのかをなぜ見ないのだろうか。知らずしらずのうちに、いつも自分の頭の中で他人の欠点ばかりを見るようになり、他人ばかりを変えたくて、自分の第一念は正念であるか、それとも、人心であるかを少しも考えなくなりました。

 このようにして、でこぼこの道を2年あまり遠まわりした後、以前の自分の思考様式は、すべて旧勢力によって無理やりに押し付けられたものだ、と最近になって、やっとだんだんと分かるようになりました。

 最近次のような、師父の経文を読みました。「皆さんにこのようなことを話したことがあります。佛とはなんでしょうか。如来は真理を踏まえて意のままに来ており、それは世間の人が名付けた呼称です。しかし正真正銘の佛は宇宙の保護者であり、宇宙の全ての正の要素に責任を負うのです。ですが、この出来事において、彼らも彼らが宇宙の法から外れた後の心性の位置を充分表したのです。彼らの不純な一面を充分さらしたのです。そのため、多くの出現すべきでないことや各種の妨害が現れたのです。これは今日自らを修煉している学習者の心性の表れと非常に似ています」[1]

 「これは今日自らを修煉している学習者の心性の表れと非常に似ています」[1] 。この言葉を読んで、はっと悟りました! 自分のこの段階での悟りですが、旧勢力は他人を変えようとして、自分を変えたくない思惟方式を修煉者に強制的に幾層にわたって加え、この目的を達成するためにこれらを基準にして、旧勢力が認めず残して欲しくない生命を淘汰し、修煉者と衆生を駄目にさせているのです。ですから、「他人が良くない」という考えが出てきたら、必ず警戒しなければならず、自分が外来の信息にコントロールされているかどうかを必ず見るべきです。

 この他人を無理やり変えようとする考え方は、表面上では他人を良くさせ、他人を法の基準に到達せるためですが、実は不満を生じやすく、もっと進んでいくと恨みを生じるのです。言い換えると、自分の基準に達していないから、その間違いを認められず、その問題点をずっと改善しない状態を見れば、なおさら許せなくなります。時間が経つにつれて他人を見下し、軽蔑する気持ちになり、不満が溜まった結果、悪い言葉で他人を攻撃するようになります。また、たとえ表面に出さなくても、同じく心の中では嫌ったり、ひそかに文句をこぼしたりして、「忍」の原則に背いてしまい、「善」のかけらもなくなります。しかしこの全ては、他人のため、他人を向上させるためであるということを口実にしており、自分の不足を全く修めようとしていません。これが長く続くと互いに責め合い、他人を変えたいという心理作用の下で、無意識のうちに他人に良くなって欲しくないという考えが形成されます。すると他人を傷つけたり攻撃したりして、ひいては報復の心までが芽生え、気づかないままお互いに攻め合うようになります。最後には隔たりが出来てしまい、小さい範囲の混乱を引き起こし、そして知らず知らずのうちに、同修に大きな魔難をもたらし、一方で、私は本当に全力を尽くしたと言うのです。

 同時に、助けを受けた同修は、助けてもらうのが当たり前のことだと思い、同修の助けが法に則っていなければ、あるいは逆の効果になった場合、納得いかずに不満が生じてきます。古人の「一滴の水のような恩にも、湧き出る泉のような大きさでこれに報いるべし」の教えと、かなりかけ離れてしまいます。このように、修煉者の間で皆が周囲の環境に何か違和感を感じていますが、はっきりと分からないのです。これは生命が変異した後の心理状態であり、たとえ環境がおかしいと気づいていても、誰もこれらのトラブルに触れたくありません。

 師父はこのように説かれています。「神がこの世に人を済度にしにきましたが、人間は神を十字架に磔にしたのです。人間にどれほどの罪があるのでしょうか。いまだにまだ償っています。しかし、それは人間だけではなく、更に高い次元の生命も堕落していたからなった結果です。この全てをみて、彼らは自分に問題があると認める勇気はありません。全てが変異しており、法からずれるまで変異したから徐々にこうなったのです。歴史上、どの次元の生命も彼らに触れる勇気はありませんでした。全ては様々に絡み合っている、非常に複雑になった要素に左右されています。この全て不純になったものを除去し、徹底的に一掃しなければなりません!」[2]

 私個人の次元の悟りですが、周りのトラブルが入り混じって複雑だと感じても、手につけようがなく、触ろうともしないという考えは、旧勢力の変異したものが修煉者の身に現れたのです。実はこの背後にはさらに深い原因があって、人の表面のトラブルだけにとどまらず、もちろん、これらの不純なものは正さなければなりませんが、しかし、皆が内に向けて探すことが出来て、本当に法の中から法を認識し、自ら向上していきたければ、そこで初めて環境が変わることが出来、すべての人はこのようにする責任があります。

 魔難の中にいる同修、あるいは法に則っていない同修に対して、どうやったら法の基準に達することが出来るかを要求するのではなく、自分の一思一念や一言一行が法に則っているかどうかをみるべきです。法と一致し、内に向けて探すことが出来るなら、善意を持って他人に気づかせるのは構いませんが、法に合わず、外に向けてばかり見るようでしたら、他人を修めることになり、そうする必要はありません。

 師父の話を聞くかどうかは、師を信じ、法を信じることが出来るかどうかの現れです。師父の言われたことを聞かず、信じない一つの現れとして、修煉者が自分の思っている法の基準に達するように、何度も他人にばかり要求し、大法の中で正せることや大法の圓容さ、そして、悪いことでもよい事になることを信じなくなります。それは、常に師父の話を聞いて内に向けて探し、善意で他人に悟らせることが出来ないやり方です。これは個人修煉が出来ておらず法に則っていない時に、旧勢力が隙きに乗じて押し付けた考えだと思います。

 以上は、個人の理解ですが、私自身も何となく外に向けて探す部分があると感じています。斷章取義(だんしょうしゅぎ)※をして、法を解釈する部分があるかどうかについては分かりませんが、法に則っていない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『導航』「米国西部法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『導航』「北米五大湖地区法会での説法」

 ※斷章取義(だんしょうしゅぎ:詩文の一部だけを切り離して、自分に都合よく解釈して使うこと)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/1/28/400373.html)
 
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