明慧法会|魔難の中で師父は私を押し上げてくださった
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年2月15日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は1999年に法輪大法の修煉を始め『轉法輪』を一度も読み終えないうちに、中国共産党の迫害が始まりましたが、私は学法煉功をあきらめませんでした。中国共産党がどんなに法輪功に濡れ衣を着せ罪に陥れようと「中国共産党の言っていることはみな嘘だ」と私はいつも思っていました。

 天安門広場で師父の法身にお目にかかる

 2002年、迫害前に一、二度会ったことがある同修が私の家に来て「私は天安門に法を実証しに行きます」と言いました。私はその同修に「法を実証するとは何ですか?」と尋ねました。その同修が言うには横断幕を広げ「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と叫ぶことだそうです。こうして、私も「私も法を実証しに行かなければならない」という願いを持ちました。

 この一念を持ち、2002年10月、私は娘と北京へ行きました。私たちの乗ったバスがもうすぐ天安門に着く時、私は眠っており「天安門はもうすぐ着きます、早く起きてください。あなたは法を実証しに行かなければならないのではないですか?」という声を聴きました。私が目を開けると、到着しており、急いでバスを降りました。

 天安門に着き、私は「どのように法を実証するのか」と心の中で思いました。私は師父が説かれた「修煉者がたとえどのような情況にあっても生死の念を放下できたならば、邪悪は必ず恐れ慄いてしまいます。すべての学習者がみな、それができるのであれば、邪悪はおのずと消滅してしまうのです。皆さんはすでに相生相克の法理を知っていますが、恐れる心がなくなれば、あなたを恐れさせる要素も存在しなくなります。これは強いて行なうことではなく、本当に平然と放下することによって達することです」[1]という法を思い出しました。

 私は心の中で「師父、意気地がない弟子は来るのが遅くなりました」と師父にご報告しました。ちょうどその時、師父の法身が天安門の城楼の上に座っていらっしゃるのが見え、黄色い袈裟をお召しになり、坐禅なさっていました。私は天安門広場ですべての力を出し尽くして「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と叫びました。法を実証することの厳粛さ、大法の偉大さ、師父の無量の慈悲を私は感じました。私は「私は全体と結ばれ、大法を実証し、衆生を救い済度しなければならない」という願いを発しました。

 衆生を救い済度する修煉の道を歩む

 2003年初め、その当時私のそばに同修はおらず、10キロ以上離れたところに数人の同修がおり、私が外に出始めると、同修たちが私を誘ってくれました。私たちは一緒にまず周りの村で法輪功の資料を配り、横断幕をかけ、真相シールを貼りました。その後私の実家のところに行き、4、50キロ離れたところですが、そこに大法弟子はいませんでした。私たちはそこで衆生を救い済度する責任を担い、幸福に感じました。

 その後同修2人が不当に連行されました。他の同修は同修が不当に連行された場所から遠く離れており、さらにほとんどの同修がオートバイに乗れず、交通も不便で、歩いて行くのは無理でした。どうしたらいいでしょうか? 私は「自分一人でやってみよう」と思いました。その時私の娘2人はちょうど学校に通っており、4年生と3年生でした。始めの頃、娘2人に家の近くの村で手伝ってもらっていましたが、その後娘2人は恐れ、私が何と言おうと行きませんでした。下の娘がさらに「お母さんに聞くけど、お母さんは大法弟子になりたいの?」と言いました。私は「なりたいわよ」と言いました。「それならお母さん一人で行ってよ、これぐらいのことができなくてまだ大法弟子になりたいと思ってるの」。こうして私は遠いところも近いところも自分一人で行きました。

 毎回出発前に、私はいつも食事をきちんと作って鍋に入れ「帰ったら自分で温めて食べてね」と娘に伝えました。私はまた豚を1頭飼っており、私は豚のために食べ物を満杯にし、それから「師父、私は行かなければなりません。衆生を救い済度しに行かなければならないので、私の家は師父にお任せいたします」と師父に申し上げました。こうして、私は自転車に乗って出発し、1人で十数キロ走り、ときどき実家に泊まり、時には他の親戚の家に泊まりました。ある日曜日子供が学校に行かない時、私は昼間まず自転車で知らない場所をひと回りし、夜になって私は再び自転車に乗って資料を配りに出かけ、横断幕をかけ、真相シールを貼りました。ある時、帰る時にはすでに朝7、8時で、子供は学校ですでに出かけていました。そして私の家の豚は、奇しくも、私がいつ帰ろうとも、いつも眠っています。私が家にいる時豚は落ち着かず、いつも囲いを壊しますが、私が大法を実証しに出掛けると、豚は囲いを壊さず、いつも帰る時は寝ており、すべて師父が私のために豚を落ち着かせてくださったのです。

 ある時次姉の家に泊まりに行った時、私が入ると家の中に人がいっぱいいるのが見え、みな私たち人間の身なりではなく、みな天上の人の衣服でした。その中の1人が私に「あなたは衆生を救い済度するという大きな願いを発し、私たちが来なければあなたは人を救うことができるのか!」と言いました。私は心の中で「私は他の人にも話していないのに、彼らはどうして知っているのですか?」と言いました。天上の人は「あなたは天上におりあなたが誰であるか私はすべて知っている」と言いました。ぼうっとしていると、家の中にそんなに多くの人はおらず、次姉と、娘と、おいの3人だけでした。私は「恐れる必要はなく、実際師父が私をいつも見守ってくださっており、私のそばにいらっしゃり、さらに神兵と神将がみな法を守ってくださっている」と師父が悟らせてくださったのだとわかりました。

 私は村で人に出会うと、正念を発して、その人たちが私を見ないようにします。農村は犬が多く、吠え出すとつられて吠え始めるので、私は「私はあなたたちの主人を救いに来ているので、あなたは無条件に私に協力しなければならず、そうすればあなたたちも福報を得られるでしょう」と正念を発して犬たちが吠えないようにします。ある時、帰宅路上でパトカーに出会い、私は隠れようと思い、自転車ごと人の丈ほどの深さの溝に降り、私は師父に助けを求め、その後自転車を担いで上りました。

 修煉する前、私は特別臆病な人間で、1人で夜道を歩いたことはありませんでした。師父のご加護の下、衆生を救い済度する使命を全うするために、私は何も怖くありませんでした。私は1人でずっと2005年まで行ない、師父の按排の下、私の娘と他の同修1人が出てきて、私たちは一緒に衆生を救い済度しました。またしばらく経ち今度は同修2人が出てきて、こうして私たちは分かれて行ない、同修たちは同修たちのところで衆生を救い済度する責任を負い、私は近くの村で行なっています。

 地方の同修の援助の下、私も資料拠点を設立し、また街の同修を手伝って資料拠点を設立し、全体で協力して一緒に行ないました。

 この街には中国共産党の記念館があり、一度共産党のリーダーが視察に来たとき、私たちは全体で協力し、大量の横断幕を山の頂上から最も目立つ場所に掛けなければなりませんでした。山頂に通じるのはただ1本の狭い小道だけで、山頂は切り立った林立する峰であり、昼間行ってもびくびくしなければならず、私たちはみな手探り状態で行き、横断幕を平らにして、両側にも横断幕を配置しました。帰宅の路上でも、走りながらビラを貼り、横断幕をかけ、人々が多く休憩している場所に着くと、真相資料を少し置いておきました。

 ある時日が暮れ、横断幕をかけるべき枝が見えなくなったので、私たちは木に登ろうとしまたが、登れませんでした。私は同修の肩に乗り「枝よ、この横断幕をあなたにかけ人を救うので、私を上らせてちょうだい」と言いました。その枝が突然はっきりと私の目の前に現れ、本当に不思議でした。私と同修は各々家に帰り、やはり長い道のりを歩かなければならず、何カ所も墓地を通らなければならず、その新しい墓地の花輪は闇の中でさらにまぶしいくらいにはっきりしており、私は恐れ、毎回私はいつも「大法身を離れずして 心に真善忍存す 世間の大羅漢 神鬼十分懼れる」[2]と師父の法を暗唱しました。

 さらにある時、私たちは車で最も曲がった道が多いところの樹に「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」という横断幕をかけたので、山に登る人、町の人が皆、見ることができました。ある警察署の所長が数人を連れてせかせかと山の上に向かって行った時、この横断幕を見て、歩きながら「法輪功のこの大きな横断幕を見ろ、本当に野火に焼かれてもなくならず、春風が吹くころにはまた生えてくるかのようだぞ!」と叫んでいました。これは私たち2人の女性がかけた横断幕で、警察署長たち男性でも下すことができませんでした。結局その横断幕は数カ月間かかっていました。

 今(訳注:2019年11月)になっても、中国共産党の「敏感日」になるたびに、同修たちは横断幕をかけに行き、私たちは「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」という横断幕を私の街の最も高いところでなびかせなければなりません。師父は侮りがたく、大法は侮りがたく、法輪大法の弟子が師を信じ法を信じる意思は負けはないということを、私たちは法輪功を迫害する者に知らせなければなりません。

 現在(訳注:2019年11月)まで、私たちの資料拠点はみな衆生を救い済度する役割を果たしています。師父は弟子を助けてくださり、弟子が洪誓大願を全うするのを助けてくださり、いつも弟子のそばで保護してくださっていることを私は知っています。師父にお礼を申し上げ、師父に感謝申し上げます!

 魔難の中で師父は私を押し上げてくださった

 2007年7月26日の夜、私たち母娘2人が寝る準備をしていた時、思わぬ災難に突然見舞われ、15、6人の警官が押し入り、家宅捜索をし強奪して私のパソコンと真相資料を押収し、私を不当に連行しました。こうして真夜中に家で私は不当に連行され、残された娘は家で震えが止まりませんでした。

 拘置所の非人道的な取り扱いで、私の体に問題が現れ、意識を失い、県中医院に連れ込まれました。県中医院から出て、また拘置所に拘禁され、警官と拘置所の医者がこっそり出て行きました。大学に行ってまだ卒業していない娘と高校に通っている下の娘は警察署に行って私の解放を要求し、警察は解放しないどころか、子供2人の腕をねじって公安局へ連れて行き、痛みで子供2人は涙を流しました。警察は「また解放を要求しに来たら、お前らも捕まえるぞ」と言いました。私の80代の母親といちばん上の姉といちばん上の姉の夫が私の解放を要求しに行きましたが、警官たちは会うこともしませんでした。

 迫害されていた間、髪の毛を振り乱し、人間ともつかず幽霊ともつかない化け物が私をとり囲んで迫害するのを、私は何度も見ました。その時私の頭の中に「正念正行 精進停まらず 法を乱す鬼を除き 衆生を善く遇す」[3] という師父の法が現れました。私は正念正行しなければならず、どこを歩もうと法輪功の真相を伝えなければならず、警官たちがご飯を盛っている時に、私は鉄の檻の一番高いところに上がって「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい! 無条件に私を解放せよ!」と叫びました。一日三度の食事で、私はいつもこのように叫び、続けて5日間叫びました。十方世界の正しい神はみな聞いており、こうして、化け物はなくなりました。

 私は4日間食事せず、5日目、数十人の雲をつくような大男が暴力的に私に灌食し、さらに不明な薬物を加えました。全過程の中で、私はいつも大男たちに真相を伝えると、最初大男たちは聞かないだけでなく、ハハハと大笑いしました。

 私を助けてくださるよう私は師父にお願いし、心の中で師父のことを考え、目を閉じながら考えていると、私が3、4歳の小さな女の子になっているのが見え、師父の二つの大きな手が私を押し上げ、飛んで、飛んで、大きな滝の上まで飛びました。師父は私を下ろし、私は紅い腹掛けを着て滝の上で遊んでおり、その後師父は私の手を引き仙女が花を散らすのを見て、再び神兵と神将を見ました。その後師父は私を人間世界に戻らせ、私は師父の前にひざまずき「私は戻りたくありません、人間世界は苦しすぎます、私は師父と一緒にここにいたいです」と申し上げました。師父は「あなたはまだ任務を全うしておらず、すぐに戻りなさい」とおっしゃいました。

 人間世界のこちら側では、私は何度も意識を失い、昼間は灌食される時の苦痛で引き裂かれるような声を出し、拘置所のすべての人がみな聞いていました。8日目、数人の警官が私を担いで車に乗せ、私を女子労働教養所に入れ不当に1年6カ月の労働教養を科しました。しかし労働教養所の人は私が迫害されてこのようになったのを見て、受け入れを拒否しました。警察は関係先を通じて私を別の場所に入れようとしましたが、その場所もやはり受け入れず、それでやっと私を拘置所に戻しました。これはすべて慈悲深い師父が弟子のために受け止めてくださったのであり、こうしてはじめて私はまたこの劫難を乗り越えました。

 私は家に帰った後学法と煉功を通じて、数日後、衆生を救い済度する勢いの中に戻りました。

 労働教養所の警官に真相を伝える

 地方の同修の援助の下、資料拠点は正常に運営され、しばらく経ってから、私はオートバイを1台買い、衆生を救い済度することに大きな便利をもたらし、多くの時間も節約しました。

 2010年、県の公安支局と警察署の警官が協力して私を不当に連行し、警察署で一昼夜迫害し、私は正常な睡眠をはく奪され、直立不動の姿勢を強制され、足とモモがひどくむくみ、腰と足が痛くて我慢できませんでした。私は労働教養所に不当に連行されました。そこは法輪功学習者を専門に迫害する悪の巣でした。毎朝5時半に起こされ始め、夜の11時までずっと、時には晩12時頃まで「転向」しなければ体罰が加えられました。罰として立たされ、夜の12時までずっと立たされ、足とモモがひどくむくみ、腰と足が痛くて我慢できず、トイレに行ってもしゃがむことができませんでした。私は拷問されて動悸が早くなって、気分が悪くなり、嘔吐し、めまいが起きました。それでも、やはり強制的に中国共産党のことを暗記させようとしましたが、私は暗記せず、いつも喝を入れられ、怒鳴り散らされ、恥辱を受けました。

 5月13日、私たち数人の同修は朝の体操の時、人が最も多い時に「法輪大法は素晴らしい」と叫んで法を実証しようと決めました。つまり特殊な環境の中なので、朝の体操が終わった時、みんな食堂に食事に行かなければならず、同修は動かず二度と叫ばず、機会を失い、他の同修がやるかどうかを見ることなく、私は「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と叫びました。監視人の1人が私を殴り始めようとしたとき、王という姓の大隊長が「そこの監視人は何をしているんだ?」と言いました。「彼女が叫んだのです」、「叫んでも彼女を殴ることはできない」と、王隊長は他の人をみな食堂に食事に行かせ、私を残しました。王隊長は私のそばまで歩いてきて「ここがどのような環境なのかあなたは知らないのですか?」と言いました。私は「今日はあなたが当直の日だと見たので叫びました、あなたはとても善良だと私は思ったので、私はこの機会を利用してあなたに真相を伝えました。そうでなければこのようにあなたがさらに私に機会をくださることはないでしょうから」と言いました。

 私が真相を伝えるのを聞いた後、王隊長は「それなら私がこのように行なっている仕事はどうなるのだ?」と言いました。私は「あなたは片目を開いて片目を閉じ、大法弟子を大切に扱えばそれでいいのです」と言いました。食堂に行って、王隊長は私のために席を準備し、みんなに「今日は10分間遅く帰ってくれ、彼女が食べ終わるのを待ってから帰ってくれ」と言いました。王隊長はさらに全員が大法弟子の作業場を私のために準備してくれました。すべては師父が弟子のためにこの難を溶かしてくださったのだと私にはわかりました。

 2011年7月28日、私と数人の大法弟子は仕事に協力せず、殴られ直立不動の姿勢を強制されました。私は受刑者に壁におしつけられ、再び叩かれて地面に倒され、頭がぶつかって大きなこぶができ、足も立てなくなり、歩けなくなりました。

 しばらく経ってから、私を殴った監視員は家に帰ろうとしており、私は「私は彼女を救わなければならない、彼女は私を傷つけたが、彼女もまた中国共産党に騙された生命であり、私は彼女に真相を伝えなければならない」と思いました。しかしその時私の足はまだ立つことができず、私はゆっくりと体の位置を変えながら隊長に会って「○○さんが家に帰ると聞いたのですが、そうですか?」と言いました。隊長は「そうですが、それがどうしたというのですか?」と言いました。私は「見てください私の体はこのようになってしまい、これはすべて彼女のせいで、彼女が行ってしまったら、誰が責任を負うのですか? 私は彼女を行かせるわけにはいかず、あなたたちは私に説明しなければなりません」と言いました。王隊長は私の話を聞いて机をたたき、目を丸くし「お前は何を考えているんだ!」と言いました。私は王隊長に動かされず「私は来た時はしっかりした人間だったのに、現在立つことができず、これからあなたたちは私にどんな生活をしろというのですか? 後半生私はどのように過ごすのですか、私は良い人になり、真・善・忍は間違っておらず、法輪功は間違っておらず、法律の前では人々は平等であることをあなたたちは知らなければなりません」と言いました。この時王隊長の怒りは消え、監視員2人を呼んで私を助け起こし、私を殴った受刑者を呼び、さらに隊長3人もみな入ってきて、全部で5、6人でした。王隊長は「どうするつもりなのか話しなさい、どうぞ」と言いました。

 私は隊長たちに真相を伝え、法輪功は宇宙の特性である真・善・忍を基本として指導していることから伝え、1992年に大法の師父が公に伝え、多くの修煉者に収穫があり、体が健康になり、道徳が向上していることを伝え、中国共産党が法輪功を迫害しているその残酷性はありえないものであり、憲法に違反していることを伝え「真・善・忍は素晴らしい、法輪大法は素晴らしい」を覚え、大法弟子を大切にすれば、素晴らしい未来が得られることを隊長たちに伝えました。

 私は私を殴った受刑者に「おばさんは、あなたがこれから良い子になれるよう希望し、他人を大切にすることを学び、法輪功を修煉している人はみな良い人なのだということを覚えておくように希望します。あなたが無事に家に帰れることを希望します」と言いました。私を殴った受刑者は「ありがとう、おばさん」と言いました。隊長3人はみな「つまりこのためなのか?」と言いました。私は「私はあなたたちのためを思っています、あなたたちが大法弟子を迫害しないよう希望します」と言いました。

 その日から、監視員たちはみな「私たちは彼女から少し離れなくては」と言いました。師父が弟子のためにこの難を溶かしてくださったのだと私にはわかりました。

 2011年9月2日、私の不当な労働教養期間は終わりました。労働教養所の警官は私の夫に「あなたたちの家のこの人はサインせず、かえって時間の無駄になり、私たちが彼女に代わってサインしました」と言いました。

 家に帰ると、夫は5000元を私にくれ「私が家にいないので、この5000元はあなたが服を買い体を養生するのに使いなさい。しっかりと自分の面倒を見て、家の中のお金は私にお金が入ったらまたあなたに渡します」と言いました。師父が夫に私にお金を渡させたのだということを私は知っており、そのお金は私が衆生を救い済度し資料拠点を設立するためのものだと私は知っていました。

 学法と煉功を通じて、私の体は1カ月で正常に回復し、法を実証する隊列の中に入りました。

 新しい環境で真相を伝える

 2012年11月、私は大都市に来ました。私は「新しい環境でも法を実証する道を歩みださなければならない」と思い、家に帰って資料を2部手に取りました。12月になって、私はこの街の同修と連絡を取りました。師父の按排とご加持の下で、同修たちの援助と支持を得て、私は心で口に表せないほど喜びました。2013年、同修たちの援助のもと私は再びその街で資料拠点を設立し、朝市やスーパーの出入口、道端、マーケットの出入口も、私が資料を配る良い場所になりました。

 私は仕事がなく、経済的に夫と子供に頼っています。その時、私の下の娘はまだ大学院で勉強中で、経済的にも富裕でなく、私は家で1人で食事する時はいつも、一番安いおかずを買いました。私の子供と夫が帰ってきて食事する時、私はおいしい食事を作り、私の子供が服を買うようにと私にくれるお金で私はいつも資料を作り、私の金のネックレスはみな売ってしまい、受け取ったお金で資料を作り、私の家のお金はみな私が管理しているので、家の中に影響を及ぼすこともありませんでした。弟子が困らないように、すべて師父が弟子を見守ってくださっています。

 これまで、私たちここでの環境は比較的ゆとりがあり、私は自分の修煉の道を着実に歩むことができます。師父は最近のいくつかの説法の中で、人を救う重要性と、時間の緊迫さをさらにはっきりとお伝えになりました。私も同修と同様に、自分の時間をきちんと按排して、真相を伝えに出かけ、衆生を救い、慈悲を以って常人の良知を呼び戻します。

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「威徳」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正神」

 (明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/10/395565.html)
 
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