家族の同修と若い大法弟子のある問題について
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年5月23日】私は「90年代」の若い大法弟子です。大法を修煉して6年が経ちました。最近ある問題について、とても感慨深かったことがあります。自分の未熟な考えですが、ここで同修の皆さんと交流したいと思います。

 家族である同修は家族であり、同修でもある

 私の母親は、縁があって2年前から大法を修煉し始めました。私と母はいつも親密な関係だったので、母親の修煉後も志を同じくして、よりいっそう気が合うと思っていました。しかし、実際はその逆でした。 私達の間はだんだんとすれ違うことが多くなり、ちょっとしたことで喧嘩になり、激しさが増していくばかりでした。母は私より少し遅れて修煉をしたこともあって、自分の考え方を母親にもしてもらうように頼みました。口では母のためだと言いましたが、実際には良くない心が私にも多く隠されていました。

 まず第一に、「情」のことですが、 母と私はどちらも非常に情を重んじる人で、互いへの感情をとても大切にしています。私たち2人は共に修煉を始めましたが、お互いを同修として見なさず、ただ単に家族として見ていました。 私は一番正しいと思う認識を母に押し付けようとしましたが、母はまだ修煉したばかりの新しい同修なのに、どれだけ受け入れられるかを考慮していませんでした。師父は、「わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです」[1] と説かれました。しかし、私は強い口調で母親に話し、善意もなく完全に感情的になっていました。ただ自分のレベルで悟った法理で、上からの目線で母親の間違いを指摘し、命令的な口調や態度を取っていました。家族なのであまり遠慮もせず、話すときに母への配慮がなかったせいで、助けられなかっただけではなく、さらには反感まで買ってしまいました。

 第二に、「大法を利用とする心」です。当初は母親の病気を治すために、大法を利用して説得しました。母の病が治ったあとに、私はやはり大法は世の中で一番良いものだと確信し、母がしっかりと大法を修煉すれば、たとえ私がどこへ行っても母のことを心配する必要がなくなると考えました。なぜなら、師父が母親を守ってくださるからです。私を安心させてくれると思い、大法を利用する心を抱きました。 実際に考えると、このような考えがどれほど良くないか、あとで思い知らされました。大法は私たちを清め、汚い世の中から救って下さいます。表面上では大法の良さを口にする一方で、潜在意識の中ではただ求めるばかりでした。

 第三に、「外に向けて非を探す」ことです。 同修である母との間に論争があったとき、私は自分の内面をしっかりと見つめず、感情的になり自分の間違いは適当に流し、すぐに母親の間違っている箇所を指摘しました。 もし相手が常人ならばそれでもいいのですが、私たちはどちらも修煉者で、自分自身の非を探してから、相手にも内に向けて探す必要を求めるべきで、これこそ修煉者です。それなのに私はいつも、相手が変わるのを待っているばかりで、相手が変わったら自分も変わろうとしていました。 実際のところ、根本的に自分を修めることが出来ておらず、しかも、自分の中のある悪い要素を相手は感じており、これでは2人は平行線のままです。

 第四に、「人に言わせない心」です。 この点に関して、家族の同修間で特に目立つと個人的に感じています。同様な問題で、他の同修に自分の欠点を指摘された時、それが正しいか、間違っているかにかかわらず、基本的には謙虚に受け入れますが、母親に何か言われると特に何にも考えずに、すぐに反論してしまいます。 そして、相手の態度に敏感に反応してしまい、少しでも態度が悪い場合はすぐに怒ってしまい、強烈な闘争心が芽生え、いとも簡単に、理性がなく争いに陥ってしまいます。

 師父は「多くの学習者が他人からの指摘を受け入れられないのです。何かを指摘されると、すぐ怒ってしまい、心の中で耐えられないのです」[2] と説かれました。また師父はこのように「一人の修煉者として、なぜ時に意見を戦わせて対峙しているのでしょうか? なぜいつも他人の態度を強調しているのでしょうか? なぜ他人に何かを言われたら、心がすぐ動じてしまうのでしょうか? 罵られても心が動じないようにすべきではありませんか? トラブルの中で多くの場合、このものが作用しています。このものに刺激されたらすぐ激してしまい、心臓まで速く動いてしまい、この時法のために責任を負うことなど考えられなくなり、腹が立って仕方がありません」[2] と説かれました。そして「皆さんにこの心があるからこそ、皆さんの心を刺激する要素があります。皆さんにこの心が生じたから、皆さんは反感を覚えてしまいました。皆さんにこの心があるから、皆さんが嫌がっている自らの心を刺激する人を現させたのです。強い言葉に刺激されても、心が落ち着いており、まったく動じなければ、このような要素がまだ存在するかどうかを見てみてください。」[2] と仰いました。

 最後に、「恨む心」です。 家族の間では慣れ親しんでいるため、お互いの弱点や欠点もよく分かっており、長年に溜め込んだ不満など、元々お互いに気に食わないところもあります。それによって、トラブルが起こる時、事の大小に関係なく、相手に対する恨みの方が大きくなり、交流する時また問題を解決する際に、私情が混じり込むせいで、物事がさらに複雑になります。

 母親と共に修煉したこの2年間、最初は多くの執着心のせいで2人はうまくいかず、とても辛かったのです。 それから、私は少しずつそれらの問題を認識するようになり、失敗からいろいろ学び、各種の執着心を徐々に取り除きました。時折トラブルもあり、まだまだ不十分ですが、以前に比べて2人の関係は明らかに良くなりました。

 師父は「修煉したければ、人間の情を捨てなければなりません。もちろん、われわれは常人の社会の中で修煉をしているので、親孝行をするのも、子供をしつけるのも当然です。どんな環境の中でも人には親切にしなければならず、まして自分の身内のものの場合はなおさらです。親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを優先に考えるならば、それはもはや私心ではなく、慈悲心によるもので、慈悲そのものです。情というのは常人のもので、常人とはほかならぬこの情のために生きているものです」[3] と説かれました。

 家族同修の間で、多くの場合はこの情に惑わされ、慈悲心に欠け、さらに新たな執着心を生み出します。 家族としての同修の役割を上手くコントロールできず、トラブルがあったときに、ついつい争いに陥ってしまいます。

 私が個人的に思うのは、家族同修とトラブルがある場合、まず無条件に内向けて探し、相手の様子を気にせず、純粋な慈愛の心で相手の問題点を指摘します。これは、同修のためでもあります。 そして、何の私情も持たず同修の立場に立って、相手のために行なった場合、相手はきっとそれを受け入れてくれます。

 私の周りの多くの同修の家庭もこの問題を抱えています。しかし、家族同修だからこそ、普段は心の中の奥に隠され、容易に気づかない思いを気づかせてくれ、実に良いことだと思います。私達はそれを見逃したりせず、修正することでレベルアップに繋げ、まさに貴重な環境や修行の機会を家族同修が提供してくれました。この機会を大事にし、心性をまもり、家族同修とより一層学法や修煉に励み、共に精進しましょう。

 若い大法の弟子も大法弟子でもある

 周りに私と同年代の若い同修が少ないので、我々があることをよく認識し、上手く出来るようになると他の同修から肯定されます。 実際は年配の同修の若い同修への気遣いなのに、私は無意識のうちに自分を小さな弟子と定義し、自分に対する要求の基準を下げました。心は楽しいことに重きを置いてスターを追いかけたり、ドラマを見たり、携帯電話で遊んだり、美味しいもの、楽しいことを追求し、社会で面白い話題を友達と話したりします。これらのことは他の同修と一緒にしません。それを大法の中で認識も修正もせず、人間社会での異なる年齢層の異なるライフスタイルと見なしました。また、これらが精進しているとは言えませんが、まあまあ合格だと勝手に思っていました。

 先日のグループ交流会で、叔母(同修)が自分の息子がゲームをすることが多いいので心配だと言いました。ゲームをすることは破滅的だと誰もが言いますが、私はたいしたことではないと思い、「夢中にならなかったら大きな問題ではない、私だって、いつもドラマを見ているわ」。その時、誰もこの事について何も言いませんでした。

 その翌日の交流会で、近頃、私は病気に悩まされ、雑念が多いことに困っており、また自分の性格が修煉の妨げになっていると言いました。叔父(同修)が私にこう言いました。「大法弟子がしなければならない三つのことを、きちんとやりましたか? また、テレビドラマを見ている先輩の弟子がいますか? 体の変化を強調するだけでなく、すべきことをして、心を清める必要がありますね」。叔父の言葉ですっかり目が覚ましました。確かに、周りの年配の大法弟子を見ると、誰も私のようにしていません。大法を学ぶときは上の空で、発正念煉功をするときも、頭の中は雑念ばかりで押さえきれません。学校での煉功や発正念は不便ですが、学校が休みで家にいる時の環境が整っているのに、真面目にできていません。学法の拠点から家に戻ると、「仕事を終えた」時のような感じで、安心して遊びます。 本当に大法の弟子の欠けらもないのです。 若いと言うことは、ブラブラと遊び暮らす理由にはなりません。これらは強迫観念であり、すべてを正さなければなりません。

 師父は仰いました「人間は一つの容器のようなもので、何かを入れたら、そのものになります」[4] 。 今の複雑なテクノロジーやメディアの悪影響のもとで、私たちは意図的にあるいは無意識に見たり、聞いたり、悪い考えや悪いことを頭の中に詰め込んでいます。これらの良くないものを多く詰め込めば詰め込むほど、ただの常人になり、あるいは悪者になります。大法弟子が修煉して上達するには、大法のものだけを頭の中に入れなければなりません。

 若い弟子も大法の弟子です。同様に大法で自分自身を浄化し、大法を基準にして自分自身に要求し、より多く大法を学び、三つのことを正しく行なうようにします。そして、遊びたい心を排除し、もっともっと精進するようにし、全ての若い大法弟子と共に励まし合い、自分を律していきましょう。

 個人的な理解のため、不足なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
 [3] 李洪志師父著作:『轉法輪
 [4] 李洪志師父の経文:『シンガポール法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/4/17/403860.html)
 
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