自分が変われば同修も変わる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年1月12日】昨日、グループ学法に参加して同修の変化の大きさを感じました。

 この前、学法のあとで交流した時に、気まずい雰囲気の中で別れました。原因は交流時に同修が言ったことが法とかけ離れており、全て常人の世間話だと思いました。その時、内に向けて探すことを忘れて、同修の表面の振る舞いを本当のことだと思い込み、事実そのものについて論じてしまいました。その時、自分の振る舞いも法とかけ離れてしまい、師父の教えを忘れていました。「修煉はほかでもなく、内に向けて探すことであり、自分が正しくても、正しくなくても自分の問題を探すべきです。修めることは、ほかでもなく、常人の心を取り除くことです」[1] 、「あらゆるトラブルが起きて、とても不愉快に感じるとき他でもなく、あなたは自分の内に原因を探すしかありません。原因は間違いなくあなたの内にあります」[2] と師父は説かれています。

 帰宅してから学法し、内に向けて探したところ、顕示心、口を修めない、嫉妬心などの人心が見つかりました。このような人心は自分を冷静にすることができず、同修の角度から問題を考えることもできませんでした。同修は魔難の中におり(すでに2年間身の回りのことを自分でできなかった)、実に大変でした。私が同修を助けるなら、法の中で助けなければならない、しっかり法を勉強することで向上していくべきだと悟りました。

 内に向けて探していくと、口を修めない問題を見つけました。いつも外で不愉快なことを出遭うと、家に帰ると夫に愚痴を言います。これも口を修めていないことではありませんか? どうして同修が話しているときに私は不愉快に感じるのでしょうか? それは自分の心の奥に人間のものが存在しているからではありませんか? 修煉が良くできている大法弟子は、このようなことはありえないはずです。

 論じ詰めると私はきちんと修めていなかったのです。師父は「それがその悪い一面を利用して私たちに自分の良くない一面を気付かせているのではありませんか?」[2] と説かれています。師父のおっしゃる通りです。偶然に起きることなどありません。師父が相手の良くない一面を私に見せてくださったのは自分を修め、内に向け探すことです。同修のあらゆる顕れはすべて偶然ではなく、自分が修めなければならないものがあるのです。

 師父の法に照らし、さらに数年前のことを振り返ってみると、他の同修との交流の中で、お互いに不愉快なことも起きました。当初はやはり自分には問題がないと思い、深く隠れていたこの人心を見逃していました。今回こそ私は決して見逃しません。同修の振る舞いを見て、不快を感じることはこれ自体問題があります。大法修煉者はこのような不快を感じないはずです。この不快感は楽になりたい人心であり、取り除かなければならない人心です。私は発正念をし、この人心を取り除いたら気持ちがすっきりしました。

 今回同修と交流したことによって、私は修煉の厳粛さ、修煉者の人心がいろんなところに現れていることに気づきました。自分を厳しく律すれば表れた人心をつかみ排除することができます。もし放任すると知らず知らずのうちに旧勢力の罠に陥り、隙に乗じられ、旧勢力に引っ張られて駄目になってしまいます。

 認識を高めたので、今度の学法の時に自分の過ちを同修の前で認め、謝ることに決めました。まさに自分が変わると周りの環境も変わり、意外にも同修の変化はもっと大きかったのです。

 顔を合わせると同修はすぐ口を開いて「私は口を修めることができました。この1週間、言うべきでないことを言いませんでした。息子、嫁、娘はみな私に対してとても丁重でした。いつも私に悪口を吐く息子は私の話の後を引き取って叱ることもなくなりました。口を修めることはこんなに重要なことなのに、どうして今まで自分を修めていなかったのでしょう? これが分かったのは遅すぎました」と言いました。私は「遅くないです。この前は全部私が悪かったのです。あなたの立場に立って考えなかったし、言い方もきつかったし、本当にすみませんでした」と同修に謝りました。同修は私を許してくれました。

 この2年間で初めてうまく交流することができました。なぜかというと、私と同修はともに内に向けて探したので、2人とも修煉者らしくなりました。師父は私たちの空間にある悪いものを取り除いてくださり、空間場が綺麗になりました。

 同修は「この数日間、夜眠れない時は起きて説法を聴きました。たまに一晩中眠れなくても、次の日の精神状態は悪くありません」と話しました。同修はまた立ち上がれない身体を引きずって、半年ぶりに師父に線香を上げ、線香を真っ直ぐに挿すことができないことを師父に許して頂きました。同修は嫁に対する話し声も下がり、嫁も同修を尊敬するようになりました。すると、同修の身体にも大きい変化がありました。同修の周りで起きた数々の小さな事を聞いて、胸の内が切なく、嬉しくなりました。「師父、全て弟子の問題であり、私の心性の向上は遅れていました。これからは更に精進し、しっかり自分を修めます」と心の中で思いました。内に探すことは法の宝であり、修煉者として、いつまでもこの法の宝を忘れてはいけません。この日の午後、学法する時の状態は今までで一番良かったのです。

 私が変われば、同修も変わります。慈悲なる師父に感謝します。私は同修と引き続きしっかりと今後の修煉の道を歩みます。

 これは個人の悟りであり、法に則っていないところがあれば同修のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『シンガポール法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/12/18/396661.html)
 
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