明慧法会|司法関係者を慈悲深く済度(上)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年3月15日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 家族の救出に成功した過程

 私の息子は大法に対する信仰を堅持したために、中国共産党に不当に連行され2017年から2019年に救出されて出所するまで、1年9カ月間刑務所暮らしを経験しました。その過程で、私は同修たちとしっかりと歩調を合わせ、全体で向上し、衆生を救い済度しました。以下は、その過程でのわずかな体験を慈悲で偉大なる師父にご報告いたします。

 私は今年(訳注:2019年)73歳で、1996年に法輪大法の修煉を始めました。二十数年来、よろめきながら歩んで魔難は絶えず、もし、師父の慈悲深いご加護がなければ、そして大法の力がなければ、今日(訳注:2019年11月)まで歩むことは難しかったでしょう。特に一昨年(訳注:2017年)に発生した巨難の中を歩んでくることは難しかったでしょう。

 私の一家はみな法輪大法を修煉しており、中国共産党が法輪功を迫害して以来、私の一家はずっと中国共産党によって迫害の重大な対象者とみなされました。数え切れないほど騒ぎを起こされ、両親は限りない脅迫が続く中で私から離れていきました。私は不当に公職を解任され、労働教養を2回科されて酷く迫害され、夫は長期にわたって尾行されて生活をかき乱され、さらに7カ月間不当に拘禁されました。息子は法輪功迫害の真相を伝えたために、懲役11年の重い刑罰に処され、息子の嫁は圧力の下で息子との離婚を迫られ、母一人子一人の長期の生活の中で恐怖にかられて生きてきました。20年来ずっと、この家は早くから中国共産党に迫害されて妻や子は散り散りばらばらになりました。しかしどんなに多くの困難があろうとも私は倒れず、依然として大法の中で修煉しています。

 巨難の下で勇敢に立ち向かう

 2012年末、息子は九死に一生を得て、ひどい傷を負った体を引きずって刑務所から帰ってきたばかりで、生活はまだ落ち着いていませんでした。二重の災禍が、嫌というほどの魔難に遭っている我が家を再び襲い、私の頭上に再び魔難がのしかかるとは夢にも思いませんでした。

 2017年、夫は重荷に耐えられなくなり、体が中風になって5年後に突然亡くなりました。5日後、家族の心がちょうど苦しみと悲しみに打ちひしがれていた時、突然6、7人の私服警官らが我が家に侵入し、有無を言わさず私の息子を連行する、と言いました。私は不意を突かれて呆気にとられ、心臓が跳ね上がり、両手がしばらくけいれんしました。この時、ある声が私に「あなたは大法弟子です。倒れずに勇敢に立ち向かわねばなりません!」と告げられました。

 この時に残りの警官ら5人が息子のいる部屋に入っていくのが見え、私は無意識についていきました。この時、私の頭がはっきりしており、「あなた達は何をしているのですか? どうして連行するのですか? どうして令状を提示しないのですか?」と尋ねました。するとその中の1人が「私は王xxといい、県の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)の者で、連行するのは、あなたの息子が中央指導者に手紙を書いたからだ」と言いました。私は「手紙を書くのも違法なのですか?」と言いました。そこで警官らに法輪功の真相を伝えることができ、状況はまだ平和でした。警官らは家宅捜索する際に、家の中を引っ掻き回しませんでしたが、デスクトップパソコンの本体1台とノートパソコン1台を押収して行きました。人を連行したり、家宅捜索をするのに何の令状も提示せず、帰る時に差し押えの明細書も置いていきませんでした。

 その後、私はオートバイで県城(訳注:県人民政府が置かれている町)へ駆けつけ、同修たちがちょうど私を待っており、私が詳しく説明した後、一緒に公安局へ行って解放を要求しましたが、門衛は入れてくれませんでした。夜まで待つしかなく、国内安全保衛部門の隊長の家に行って、ドアをノックしてもドアは開かず、10分待ってもまだ隊長が帰ってくるのは見えませんでした。

 翌朝5時、私は国内安全保衛部門の隊長の家に駆け付け、ノックすると隊長はすぐに開けて家の中に入れてくれ、私はそこで1時間近く法輪功の真相を伝えました。大法が素晴らしいことと、国民が法輪功を修煉することは違法ではないことを重点的に伝え、当時の形勢を伝えると、隊長はすべて聞いてくれました。私はさらに「ここ数年、隊長は本当に変わりました。その変化は大きく、地元の法輪功の修煉者は皆があなたに対して好印象を持っており、このようなことをもうすべきではありません」と伝えました。隊長は「あなたの息子を捕まえなければ、私の地位を保てなくなります」と答えました。私は「法輪功を迫害することは一つの政治運動であり、運動であるからには、遅かれ早かれ終わるであろうし、その時あなたはどうするのですか? あなたは未来が欲しいのですか、それともこの地位が欲しいのですか?」と聞きました。隊長は「私は未来が欲しい!」と歯切れよく答えました。さらに「私の権限を使って、力を尽くしてみましょう」と言いました。私が帰る時に、隊長はさらに家まで送ってくれました。

 午前中、私は協調をはかっている同修数人に朝の隊長の様子を伝えると、皆それを聞いて喜びました。その後、いかに同修を救うのかについて討議が進みました。「同修を救う過程は、衆生を救い済度する過程であり、これをきっかけにして広く司法関係者を救い済度します。実際本当に最も深く迫害を受けているのは司法関係者であり、本当に悪いことを良いことにしなければならない」と皆の意見が一致しました。そして救出チームができ、さらに国内安全保衛部門の隊長の今回のことについて、先に街中で伝えてはいけないと決定されました。

 教訓と失策

 同修が帰った後、私は県の留置場に行って状況を理解し、息子がすでに拘留されたことを知り、特に分(ぶ)が悪い状況であることを聞きました。留置場の人は皆「この件は大きく、省の中で皆が注目しており、誰が取りなしてもだめで、厳しい実刑判決が下されるに違いない」と騒いでいました。その後、数日の時間が過ぎ、再び「この案件は実刑判決を下されるだけでなく、さらに、家財を押収されるに違いない」と人から聞きました。同時に公安内部で再び「国内安全保衛部門は再び市のインターネット監視部門と調査に来て、証拠を探し出して罪を決定するに違いない」と聞き及びました。同修たちは皆このことを聞き、「保衛部門の隊長はどちらの味方をするか、機転をきかせて駆け引きしている所なので、先日の隊長の発言を暴露しなければならず、暴露のタイミングが悪ければ彼が引き続き犯罪を犯すことを放任することになる」など、さまざまな意見も出ました。最も主要な意見は、私が隊長を告訴するという意見で、さらに隊長を敗訴させ、同修と交換して出所させるべきだ、と強く言われました。当時、明慧ネット上でも告訴という方法で震え上がらせ、さらに、司法関係者を救い済度した文章が確かに載っていました。しかし、どんな心の準備をして行なうのかまでは、そこまで真剣に考えていませんでした。

 私はまだまじめに考えておらず、さらに大法に照らし合わせておらず、急いで告訴状を書いて県の検察庁の告発課に提出しました。課長が私に会い、告訴状を見た後「あなたが書いた通り、このことが真実であるならば、案件が来るのを待ちましょう」と言いました。私はそれを聞いて望みがあると思い、時間を無駄にせず、告発課を主管する副検察長に会って法輪功の真相を伝えましたが、告訴のことを主張すると、副検察長は私を避けました。その後、何度も告発課長に会いに行くと、その態度も変わりました。私はその時「私があなた方も告訴することを登録しませんよね」と投げかけました。それを聞いて告発課長は「告訴すればいいでしょう、告訴したければどこであろうと告訴してください!」と怒り出しました。その後、告発課長が告訴状を資料課に送ったとき、国内安全保衛部門の隊長に見つかりました。ある日、隊長は私に会い「いいだろう、あなたが私を告訴するなら告訴すればいい。我々は敵になった。もう二度と何も話さない!」と大声で怒鳴りました。

 その後、私は公安局と検察長とも対立し、もともと中に入ることが出来たのが入れなくなり、法輪功の真相を伝えることに障害をもたらしました。

 拒絶された後、私は内に向けて探し多くの心を見つけ出しました。まず、「人を敗訴させ、自分に親しい人間を出させる」というのは利己心であり、これは何とも汚れた私心であり、修煉者が持つべき心ではありません。これ以上探しても行ない難く、ゆっくり考えるとやはり本当に子供っぽくて馬鹿げており、闘争心と復讐心を抱きながら行ない、ただ自分を対立の立場に立たせただけでした。さらに焦りと結果を求める心があり、さらに人が良い態度をとったのを見れば喜び、よくない態度を見ると、恨みが頭に浮かび上がり、どこに大法弟子の寛容さと慈悲が、どこに大法弟子の善があるのでしょうか? 実際、明慧ネットの交流文章の中では「告訴を行なうには純粋な心を抱かなければならず、本当に慈悲心を抱いて行ない、それではじめてよい効果を得られる」と何度も強調されていました。しかし、慈悲は言うだけで行なえるものではなく、その境地で出てくるべきものです。その後、私はこのことについて同修と交流し、同修たちの同意を得ました。

 教訓と言えば、さらにあることがありました。検察庁に行き始めたばかりの時、警備室に張という姓の副主任(張さんの体は悪く張さんに伝達を頼んだ)がいました。私がその場で法輪功の真相を伝えると張さんは比較的よく受け入れ、検察長に法輪功の資料を渡してもらうよう張さんにお願いすると、張さんはとても気をよくしました。私が再び訪れると張さんは「また来たのか、また新しいやつか?」と言いました。私が張さんに渡すと、張さんは自ら階段をのぼりました。しかし、その資料を渡してからは張さんは二度と私を相手にしなくなりました。その文章のもともとの見出しは「高等裁判所および高等検察庁の司法解釈は法律ではない」でしたが、「高等裁判所および高等検察庁の司法解釈を執行することは違法な犯罪だ」に変わっていました。

 その後私は「大法弟子のひと言さらには一文字は、非常に重要であり、衆生を救い済度する効果に直接影響し、厳粛に対処して、こと細かく推敲しなければならない」ということに気づきました。高等裁判所および高等検察庁の司法解釈は、司法関係者の節刀であり「高等裁判所および高等検察庁の司法解釈は法律ではない」と言えば、司法関係者はさらに考える余地がありますが、「司法関係者たちが高等裁判所および高等検察庁の司法解釈を執行することは違法な犯罪である」と言い切ってしまえば、司法関係者でさえ犯罪者として数えられ、そうなれば、司法関係者は高等裁判所および高等検察庁の司法解釈を容易に受け入れることが出来なくなります。うまく言えば、司法関係者は大法弟子の言葉をだんだんと受け入れていきます。

 心を込めて人を救う

 教訓によって私は「同修を救う過程は衆生を救い済度するだけの過程ではなく、執着を取り除き心性を向上させる過程である。衆生を救い済度するには慈悲心を持たなければならず、心を込めて行ない、同時に忍耐と包容を修めなければならない」ということを悟りました。

 同修のAさんの公訴人(訳注:検察官)を救い済度するというやり方は、私にとって印象がきわめて深く、参考になりました。同修のAさんはある検察官を知り、すぐにその検察官に真相を伝えたいと思いましたが、電話をかけてもその検察官は電話に出ず、メールを送ってもその検察官は相手にせず、家に行くとその検察官は避けてしまい、同修は一度諦めようと思いました。しかし、再び「自分が知ったからには、私が彼を救うべきで、話そうとせずに避けることは、虚言にとても深く害されていることを説明しており、救わなければ彼は淘汰されてしまう」と思いました。そこで同修のAさんは心を込めて長い手紙を書き、手紙の中で自分がいかに親を大切にしているかを伝えました。さまざまな不公平に直面し、さらに家族以外の人が聞いたらみな受け入れ難いことばかりでしたが、Aさんはいつも寛容な心で忍耐しました。それでも舅は何もせずにAさんを罵りましたが、いつもほほえみ返していたことを伝えました。

 Aさんが30歳の時、Aさんの夫は突然交通事故に遭って亡くなり、Aさんと幼い息子2人が残されました。舅姑はAさんがこの家を出ていくと勘違いし、Aさんがどんなによい態度を取ろうとも、舅姑はAさんを信じず、家の中の物を持って行ってしまうことを心配しました。舅姑のAさんに対する不公平の原因は恐らくこれらの事です。

 二つだけ例をあげますと、一つは実家で、Aさん夫婦が若い頃に自分で建てた5部屋の家は、引っ越した後に、他の人が10万元で買いたがってもAさん夫婦は売らなかったのですが、Aさんの夫が亡くなった後、Aさんの舅は何も言わず8万元で売ってしまい、隣人はそれを知って呆れてAさんに代わって不平を訴えました。しかしAさんは「お義父さんはお年寄りですから」と言って、耐えました。

 さらにもう一つ、市内のマンションも、基本的にAさん夫婦がお金を使って買い、その部屋の戸籍を入れる時、親(訳注:舅)は息子の嫁(訳注:Aさん)の名前で登録させず、いちばん上の孫の名前ならどうかと提案してもそれもダメで、舅の名前を使わなければなりませんでした。同修のAさんはそれを受け入れ、Aさんはお年寄り(訳注:舅)がAさんを理解していない、ことがはっきりわかっていました。

 Aさんは何度も舅姑に「安心してください、私はこの家を離れませんし、お義父さんとお義母さんに親孝行し、子供2人を成人まで育て上げ、妻をめとり子をなすまで育てなければなりません」と事の詳細を話しました。Aさんは本当にその通りに行ない、冬には舅姑の2人を街に招き、舅姑のために食事を作って親孝行し、子供2人も皆すでに成人になりました。長男は警察学校を卒業してから警官になり、さらに結婚して独立し、次男は大学に通っています。舅姑はついに理解し、もう二度とAさんを他人扱いしませんでした。修煉していない人や、心の法の規制を失った人が、これが出来ることであるかどうか考えてみてください。

 同修(訳注:Aさん)は手紙を書き終わった後、昼食を食べる時間を利用して、この検察官の家に手紙を持って行き、検察官の夫婦2人はちょうど食事をしていました。同修は「お兄さん、私はあなたに手紙を書いたので、見てください」と言いました。検察官は受け取らず、検察官の妻は恥ずかしく思い「人が善意で家まで持って来たのに、あなたはありがたく思っていないのですね。私に渡してください。見てみます」と言いました。検察官の妻は手紙を受け取りました。どんなに説明しても、心を込めて書いたものはやはり捨てられました。同修は焦らず「時間を与えざるを得ないでしょう」と思いました。

 機会がついにやって来て、2018年のある日、県の裁判所で開かれた開廷前の会議で、この検察官は裁判の結末を推測しました。一つ目は捜査して処理する担当の「その場でまず捕まえてから、当事者に調査証明書にサインさせる」という案件は、処理する過程が違法であると弁護士が提出したことで、二つ目は捜査の担当が、誘導尋問によって証拠を獲得した、と当事者が話したこと、でした。このような大きな漏れを、検察官は見破りました。後で知ったのですが、検察官は法廷で司法関係者のために案件を請け負うことによって、将来スケープゴートにされてしまうことを恐れたのでした。検察官の妻はかつて他の人に「将来がどうなるのかなんて、誰にもわからないでしょう?」と言っていました。同修は機会が成熟したと見て、もう一度検察官の家に行き、再び法輪功の真相を伝え、検察官に中国共産党を脱退させ、その後検察官は機会に乗じて公訴人(訳注:検察官)としての役割を辞めました。一念が岩をも透し、この検察官はついに救われました。

 郵便局のドアが私に向かって開かれた

 誰でも知っているように、中国共産党政府は人々を恐れ、警察・検察・裁判所は人々を恐れ、一日中ドアが閉じられてどうしようもなく、中国共産党官吏および司法官関係者たちを救い済度しなければならないのに、ただ手紙を郵送するという方法に頼るしかありませんでした。1年余り、私はただ手紙を郵送して1000通以上に達し、彼らが受け取らないのではないかと最初は恐れ、基本的に書留郵便を郵送する方法を採用していました。しかし大量に書留郵便を郵送するのは口で言うほど簡単にはいきません。郵便局はトラブルに巻き込まれることを恐れており、開封して内容を見せ、身分証も見せ、さらにサインしなければならず、手間がかかりました。

 私は真相を伝えないのは良くないと思いました。恥も外聞もなく私は手紙の中に書かれている内容をすべて郵便局の人達に伝え、私の一家が遭遇したこともすべて打ち明けました。法輪功を修煉してよい人になっただけで、私の一家が迫害されて家も家族も失い、妻や子が散り散りばらばらになったことを、郵便局の人達に伝えました。息子は懲役11年の重い刑罰に処され、刑務所の中で死にそうになり、家に帰れたかと思うと、ただ上司に仕事復帰と食費の元手を要求する手紙を書いただけで、再び不当な判決を受けなければなりませんでした。司法関係者達はまったく道理をわきまえておらず、無実の人間を連行しました。私が話し終わった後、郵便局の人達は同情を示し、ただ「あなたはずっと送っていますが、彼らは見てくれているのですか?」と言いました。私は「彼らは見ると思います」と言いました。

 私が手紙を確認しようとしたのも、師父の按排だったのでしょう。ある日、雨が上がったばかりの時、私は書記と県長たちに書いた手紙を持って郵便局に入ろうとした時、主管の書記あての手紙があったかどうか確認しようと思いました。急いで出てきたのでよく見なかったのです。私は書類袋から外に引き出すと、数通の手紙が一斉に地面に落ち、ぬれてしまったので、郵便局に入って封筒を交換しようと思いました。郵便局に入ってから「大型の封筒を4枚ください」と私が言うと、1人の若者が引き出しを開けて封筒を取り出し、手渡してくれました。私は濡れた封筒を破いて新しいのに変え、2枚目の封筒を交換した時に中に何かがあるのに気づき、取り出して見てみると切手で、4元2角(訳注:10角で1元)の切手でした。私は急いで「すみません。封筒の中に切手がありますよ、返します。あなたたちが損してしまいますよ」と言いました。数人の職員がみな聞いており、責任者もそこにいました。職員たちは「ありがとうございます」と繰り返し言いました。私は「お礼には及びません。法輪功を修煉している者は皆こうですから」と言いました。

 再び郵便局へ行くと、手紙も調べず、身分証を出す必要もなくなりました。また行くと、入るなり職員が微笑みながら「何を送りますか。書留郵便ですかそれとも普通便の手紙ですか? すぐに手続きしますから、すぐに送れますよ」と言いました。こうして郵便局の扉は私に向って開かれました。

 案件は裁判所の段階にあり、経験も教訓もあり、どのようにすべきかも知っていました。裁判官に面と向かって接触しても、やはり裁判官たちに手紙を書いて交流し、できるだけ大法の基準に基づいて自分を律し、大法弟子の風格が本当に現れてきました。手紙の内容は謙虚で礼儀正しく、手紙の中のすべての文字、すべての言葉はみな何度もよく見て推敲して、1通の手紙で何度も書き換えなければなりませんでした。文章を手直しする時はいつも「この文字は相手に受け入れられるだろうか? 本当に相手のことを考えているのか? 相手を救い済度することに本当に役に立つのか?」と考えなければなりません。手紙を書くことが面と向かって話をするのと同じ効果があるように、努めなければなりませんでした。

 私たちはしっかり行えたので、相手の善心も出てきて、下記の小さなことも見てとることが出来ました。ある時、この案件を請け負った裁判官が私に電話してきて、相談したい用事があると言い、門の所で待っているようにと言いました。裁判官が出て来て、私を角の所に連れて行き、「ここにはモニターはなく、私達はここで話しましょう」と言いました。裁判官は「あなたが書いた手紙を私はすべて読み、あなたの息子さんにも会い、あなた達は皆よい人ですね。安心してください。私の権限によって、必ずうまく処理できるでしょう」と言いました。私は感謝の意を表し、そして、「裁判官と家族に素晴らしい未来があることを願います」と裁判官を励ましました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/9/395568.html)
 
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