文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年1月6日】
慈悲で偉大なる師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は中国の東北地方で生活し銀行で仕事をしており、1996年に大法の修煉に入りました。7.20以後、明慧ネットへの接続の仕方を同修がはじめて教えてくれ、トップページを開くと目に移ったのは、師父が山中で世間を静観なさっていらっしゃる写真でした。私はそれを見て「家を見つけた!」とこの上もなく感動しました。
それから私は毎日明慧ネットに上がりました。明慧ネットから真実で信用できる情報が伝わり、中国共産党が大法弟子を迫害した情報や、同修たちが正念正行で迫害に反対して大法を実証した交流文章を、また、同修が制作した真相資料や必要な各種の情報、そして世界各地の大法弟子の精彩を放つ交流文章を明慧ネットからダウンロードしています。
20年間を振り返り、私の法を正す修煉の道と毎日明慧ネットを見て、真相資料を制作することとは不可分の関係にあります。慈悲で偉大なる師父のご加護の下、嵐の中で錬磨した20年間を歩んで来て、この花は目もさめるばかりにどんどん美しく咲いています。
私は同修たちの要求に基づき、さまざまな人たちに対してさまざまな資料を制作し、種類も万全で、パンフレットの表紙とブックカバーには両面コート紙を使い、縁なし写真のプリントは非常に精巧で美しく、同修たちに認められ人々の称賛を得ています。
一、小さな花が初めて開き 嵐の中で錬磨する
2000年6月に明慧ネットへ上がるための学び方を同修が教えてくれ、夫が職場からワイヤードットプリンターを持って帰って来ました。数日後『4.25中南海事件の真相』を明慧ネットがはじめて発表し、私はそれを急いでプリントし、地元の同修を集めて交流し、広範囲に配ることを同修たちはみな一致して同意しました。すぐに引き続き、明慧ネットがまた真相資料のチラシを発表し、私はすぐにそれをプリントし、同修に渡し、同修たちは分かれてコピー会社に持って行ってコピーしました。その後、自発的に街に出て面と向かって真相資料を配りました。その時から、地元で大法を実証すること、真相をはっきり伝えること、人々を救い済度することの過程が開かれました。
はじめて真相資料を配り終えて家に戻ったばかりの時に、警察署の運転手に通報されたことを私ははじめて知り、なぜなら、私はその運転手に真相資料のチラシを配ったからで、私はこの件で、33日間も不当に拘禁されました。その間、地元の刑警隊2人は私に対して不当に尋問し、私は2重のビニール袋を頭からかぶせられて気を失い、拷問にかけられ自白を強要され、刑警隊は真相資料の出所を調査しようとしました。私は少し不満に感じるだけで涙を流す人間で、その時、中国共産党の迫害と侮辱、脅迫と脅しに直面しましたが、私は何も恐れませんでした。しかし、涙はやはりその間、とぎれた汗のように下に向かって流れ落ちました。
私が話さないことを刑警隊2人は見て取ると、1人の警官が私の両手を押さえつけ、もう1人の警官が私の頭にビニール袋をかぶせ、顔中が涙だらけの中でビニール袋が顔に貼りつき、呼吸がとても困難でした。私がそれでも話さないと見ると、またもう1枚のビニール袋を私にかぶせました。この時、呼吸は全くできずに窒息しそうになり、危篤状態になりそうになった時、私は「師父! 弟子は死を恐れませんが、今死ぬわけにはいかず、弟子にはまだ、真相資料を作って人を救うという使命があります!」と思いました。この時「法輪大法を修煉している僕にはこんなことをしないでほしい」[1] という師父の法が私の頭に表れました。私が力を入れると、両手はすぐに私の両手を圧迫している警官の手から逃れ、すぐに頭にかぶせられたビニール袋を外しました。その際に、刑警隊の2人は押さえつけたりはせず、師父が私を助けてくださったのだと私にはわかりました。
刑警隊の1人が激怒して、両手で狂ったように私の後頭部を殴りました。不思議なのは、この時まったく痛みがなく、慈悲で偉大なる師父が私の代わりに請け負ってくださったのだと私にはわかりました。私は「あなたたちはこのように私を扱うべきではなく、私は法輪大法を修煉している者です。誰があなたたちにこのようにしろと指図しているのですか、書類があるのですか?」と言いました。刑警隊の2人は「中国共産党が私たちにこのようにさせているのだ、江xxが書類だ!」と言いました。
続いて、刑警隊の2人は湿ったコンクリートの上に私を座らせ、さびた針金を持って私の顎にかけ、侮辱し、脅かしました。最後に刑警隊の1人が私を痛めつけるのに疲れ、ベッドで横になるために休みに行き、その後、その刑警隊は「お前はオレを恨むだろう、このオレを恨むだろう」と言いました。私は「大法の師父は真・善・忍を修めるよう私に教え、私はあなたを恨みません」と言いました。刑警隊は「それなら、お前は何を泣いているのか?」と言いました。私は「私にはあなたがとてもかわいそうに見えるのです」と言いました。去っていく時、もう1人の刑警隊が「明日も続け、トウガラシ入りの水をお前に飲ませ、お前が話すかどうか見てみよう」と言いました。その後、刑警隊の2人は私を審問しませんでした。私を解放する前日、公安局の局長が「我々はもともとお前の考えを変えたくはなかったが、お前はいつも我々の銃口に向かってぶつかって来て、穆桂英のようで、まったく落ちて行かない! 500年後、お前の碑が立つだろう!」と言いました。
私はここを出て来た後でこのことを知りましたが、公安局の局長が他の同修に「オレは彼女に本当に感服した。こんなに迫害されてもまだこんなにも確固として信仰し、彼女には本当に力強さがあり、すごいと思う」と言っていました。
数年後のある時に、街で真相を伝えた際にすでに定年退職した前の公安局の局長にばったり会い、前の局長に大法の真相を伝えると、局長は「三退」し、帰る時に、私に「お体をお大事に」と言いました。
二、同修と協力して資料を作る
2006年、私は中国共産党に不当に指名手配されました。住居を追われ2年近くなり、1人の年配の同修と一緒に部屋を借り、再び資料拠点を設立しました。その同修は資料拠点を津々浦々まで広めることの重要性をまだ認識していませんでした。私が制作する真相資料の質がいいので、同修はみな私が制作する資料を欲しがります。資料の需要量が大きく、インクジェットプリンター1台では不足で、もう1台加え、さらに大型の中古のモノクロレーザープリンターとノートパソコン2台を増やし、すぐに引き続きDVDを作る必要に迫られ、DVDレコーダーを増やしました。毎日字を打たなければならず、「三退」名簿にアップロードし、さらに「三退」名簿をチェックし、発表されるまでチェックし続けます。朝から夜まで忙しく、毎日1講しか学ぶことができず、翌朝煉功を終わらせ、発正念を終わらせ、また資料を作り始める、これをいつまでも繰り返しました。
私と一緒に協力してくれる同修はこれらを理解せず、私に多く学法させて、資料作成を少なくさせようとしました。私は同修と「現在の中国共産党の迫害の中で、同修たちはプレッシャーをものともせず真相資料で人を救い、もし同修たちが何も持たずに行なってくるのなら、私は心に忍びないと思います」と交流しました。すぐに、また1人の年配の同修が私に協力してくれ、私は夜の休憩時間を利用して資料を作りました。
大型の中古のレーザープリンターのトナーカートリッジからトナーがこぼれ、十数枚プリントすると汚れ、品質を保証するために、私は我慢し、面倒を嫌がらずにプリントしては資料を拭きました。ある時、東北地方の旧暦12月の厳寒の候の冬に、年配の同修2人は早く寝なければならず、「すぐにオンドルは冷たくなってしまいます」と言いました。私はやはり引き続き資料を制作し、プリントの質をじっと見すえながら漏れたトナーを拭き、12時になると私は年配の同修2人を軽く揺さぶって起こして発正念をし、発正念の後にまた資料を制作し、やり終えるまで行ない、また師父の説法をイヤホーンで聞き、その後になってやっと横になって寝ていました。
私ははっきりとした夢を見ました。大きな教室で、師父はスーツをお召しになり、教室の前にお立ちになり、三つの問題を質問なさいました。師父は私をお呼びになり、私に応えさせ、この時私は三つの問題をすべて答えました。師父は私と同修2人に大学院を受験する準備をさせ、「座っている人たちの中に、すでに大学院生がいます」とおっしゃり、私と同修2人は切磋琢磨しました。すぐに続いて、大通りで豆腐をかけているのが目に入り、一つずつビニールで真空パックされ、十数本並んでおり、大通りの横に高々とかけてあり、私が見てみると透明で明るく、そこで目が覚めました。
朝発正念を終え、私は夢のことを年配の同修2人に話しました。私は「大学院の試験の準備をしている3人とは私たち3人のはずです。心性を向上させるべきだと師父は私たちを励まして下っており、行なうべきことを引き続きしっかり行ないます。しかし『豆腐』が透明で明るいことについては、どういう意味なのか私にはわかりません」と言いました。法輪功のパンフレットを製本した時、同修はうれしそうに「透明な豆腐が何のことかわかりました、つまり真相資料です。あなたが昨晩作った真相資料は無駄ではなく、透き通ってきらきらと輝いています」と言いました。同修が製本した法輪功のパンフレットをプリントした後、例の大型のレーザープリンターは二度とトナーがこぼれることはなく、大法を実証する中で傑出した貢献を行ないました。毎日楽に1000冊の法輪功のパンフレットを作り、さらにインクジェットプリンターで表紙を作ると、これがとても歓迎されて、供給が需要に応じきれませんでした。『共産党についての九つの論評』は、1日に100冊作ることができます。
ある時、年配の同修の娘が来て、年配の同修は私の状況をその娘に話しました。当時、私は不当に指名手配されており、家の中にはプリント設備とプリントしたばかりの真相資料がありました。さらに、その同修の娘の夫は、地元で大法弟子を迫害している最も邪悪な610弁公室の主任の実のおいでした。年配の同修が口を修めないことに対して、私は文句を言いました。そしてあまり経たないうちに、年配の同修の娘婿もやって来ました。その時ちょうど、私は法輪大法の真相を書いた紙幣を作っているところでした。同修の娘婿は好奇心を持ったかのように、「すばらしいですね、なんと法輪大法の真相を書いた紙幣はこのように作られるのですか」と言いました。私は頭をあげず、同修の娘婿の顔も見ずに、ただ返事だけをしました。
同修の娘婿が帰った後、私は恐れる心が出てきました。私はある程度の迫害を受けてきたので、「同修の娘婿の叔父(訳注:610弁公室の主任)は直接迫害に加担すると主張するだろう!」と思いました。プレッシャーが私の顔に表れているのを見て、年配の同修は「恐れる必要はありません、場所を変えましょう」と言いました。私は「2日間考えてから、また相談しましょう」と言いました。
その2日間、私は資料を作りながら内に向けて探し、同時に大量に学法しました。師父は「皆さんに教えたいのは、皆さんは様々な困難を乗り越えてきたので、くれぐれも心が浮き草のように、風が吹くと動いてしまうようになってはいけません」[2] と説かれました。師父は「以前既に話しましたが、実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。正念が十分であれば、旧勢力もどうしようもありません」[3] と説かれました。
学法を通して、年配の同修が口を修めないことを恨んだのですが、その恨む心を私は放下し、通報されるのではないかと恐れる疑心、恐れる心を放下し、衆生を悪く思うよくない念を放下し、自分の一思一念を正しました。師父は「煉功するには、徳を重んじなければなりません。良いことを考えることができないにしても、悪いことは考えてはなりません。いちばん良いのは、何も考えないことです」[1] と説かれました。年配の同修が「考えがまとまりましたか、もし通報されることを恐れているなら、場所を変えましょう」と3回目に聞いてきた時のことでした。私は強い正念を持って「どこにも行きません、ここでやります」と答えました。
私は雑念を排除し、自分の一思一念をいつも修め、法に照らして法に同化するように努めました。毎日2台のパソコンと3台のプリンターは、朝6時に発正念を終えてから仕事を始め、夜6、7時までずっと正常に動き、それでも資料の供給は需要に応じきれませんでした。1年後に、私たちは場所を変えました。
2008年6月、私の家の電話が監視され、師父のご加護の下で私は正念で逃げ出しました。資料拠点の安全のため、二度と尾行されることを防止し、電話を使用せず、家族とも連絡せず、毎日朝7時から夜6時まで、資料拠点で資料を作り終えてから住んでいる所へ帰りました。毎日パソコン2台とプリンター3台、DVDレコーダー1台は同時に動き、資料の供給はそれでも需要に応じきれまれせんでした。資料拠点に人は住まず、私も行かず、扉にも鍵を掛けました。私に協力した同修は資料拠点の隣に住んでいました。
数日後、地元で立て続けに同修6人が不当に連行されました。その中には資料拠点2カ所に関わる同修と、消耗材を私たちに送ってくれる運転手の同修がいました。この時すぐに、資料拠点の安全を考慮しなければならず、再び迫害の情報を収集しなければならず、明慧ネットにアップロードし、迫害を暴露する真相シールを編集して制作しました。中国共産党の迫害の圧力に直面し、私に協力している同修は再び私に「庭でA4用紙を干していた時(平屋なので、夏は紙が湿るため)隣人に見られました」と言いました。さらに「ハゲ頭の男性が上半身裸になって、こそこそと庭を見ていました」と私に言いました。同修は私に「怖いですか、もし怖いならやめましょう」と私に聞きました。私は「私たち2人は心を静めて、何の心があるのかを探し、見つけたら放下します。私たち2人が行なうことは全宇宙で最も正しいことです。師父の大法の真・善・忍の法理はすべてを制約しています。私たち2人が自分の心を実証せず、心がただ人を救うためだけにあるのならば、師がおられ、法もあるのに、何を恐れるのですか!」と言いました。
そうは言ってみたものの、心の中はやはり少し不安でした。だからと言って、行なわないということもまた出来ませんでした。重大な瀬戸際の時になり、私は100パーセント師を信じ、法を信じなければならず、私は「私は行ないます。あなたはドアの鍵を外からかけ、夕方の5時になったら、私のために鍵を開けてください」と言いました。こうして私はいつも通りに、真相資料1000冊とDVD300枚を制作しました。行なっているうちに、心境が穏やかでなくなったので、心を込めて資料を作ることに考えを投入していつと、知らないうちに恐れの物質はなくなりました。再び「修は己にありて、功は師にあり」[1] という師父が説いた法理を目にしました。
その後の日々では、朝7時、私は資料を制作しに行き、同修は外からドアに鍵をかけ、夕方5時過ぎに開けに来て、私はほぼ1日中水さえ飲まず、資料を作り終えるまで水も飲みませんでした。
不当に指名手配された2年近くの時間、私は大部分の時間を資料拠点で過ごしました。今(訳注:2019年)振り返ると、その時間はとても充実していたと感じ、毎日同修と一緒に学法し、煉功し、発正念し、さらに人を救うことを行ないながら、いつも大法に照らして自分の一思一念を正し、同修と一緒に学びながら修煉し、心性の向上がとても速いと感じました。
三、花の香りが漂いあふれ 体にしみわたる
2008年末、師父のご加持と保護の下で、私は正念で自分の仕事を回復させ、その後は家で小さな花を咲かせました。
2017年、再びインクジェットプリンターを2台買い、家で休暇を取り、真相を知らせる卓上用カレンダーを作りました。いわゆる「ノック行動」がちょうどやって来ました。警察署の警官がドアをノックし、私の夫はお酒を少し飲んでおり、ドアを開けに行けないので、私は自分とプリンターを部屋に入れて鍵を掛けました。警官は私の夫に数分間を費やしてから去っていき、その後、また私の職場にやって来ました。
ちょうど2日目に私の休暇が終わり、出勤し始め、事務所の主任は私に「警察署の警官が9時に会いに来るが、あなたは時間がないのではありませんか? 出勤する必要はありませんよ」と伝えました。私は「何でもありません」と言いました。この時主管業務のリーダーと主管業務の主任は「あなたには何年分もの休暇があり、まず休暇を取って、出勤しなくていいから」と言って私に勧めました。考えた結果、一応私は出勤することにしました。こうして、私は家で平穏に真相を知らせる卓上用カレンダーを作り上げることができました。
私がもうすぐ定年退職なので、主管業務のリーダーは私に先例を作らせ、私は毎日自分の職務をやり終えさえすれば、家に帰ることができました。こうしていつも私が仕事をやり終え帰った後に、すぐ警官が来て、いつもむだ足を踏みました。主管業務の主任はプレッシャーが大きいと感じ、ある日、主任は私を落ち着かせてから、警官に引き合わせました。警官は私の写真を撮り、私は警官に相対し、職場の同僚の目の前で、警官たちに真相を伝え、「ノック行動」が違法であることの法律条文を警官たちに伝えました。警官は私の家を見に来て、唾液を採取しようとしましたが、私はこれを拒絶しました。
私は家に帰った後、ある同修が私に会いに来ました。その同修が責任を負っている真相資料を私に作ってほしいと言い、その同修は資料作成を行なわず、街で真相を伝えることに専念したいということでした。私はその同修と交流し「資料拠点を設立することは容易なことではなく、あなたはすでに資料拠点を設立しており、またプリンターの簡単な修理もでき、もともと資料拠点は少なく、あなたが行なわないのはもったいないです。何か困難なことがあれば言ってもらえれば、解決できるでしょう」と説得しました。私は自分が「ノック行動」に遭遇し、警察が騒ぎを起こした状況をその同修に話しました。しかし、その同修はやはり、資料作成を私にやってもらいたいと言いはりました。
この時、私のもともとのプレッシャーは大きく、同修はさらに私にノルマを増やし、私は当時、心の中で苦痛を感じており、同修はわがままだと少し恨みました。そして私のことを考慮せず、自分の修煉は本当に苦しいと感じました。苦しいと思った時、私はすぐに「これは自分を実証しているのではないか?」と気が付きました。私が何かに苦しんでも、師父が私たちを救い済度してくださっていることこそ、最も苦しいことなのです! 自分の以前の教訓を思い出し、すぐに内に向けて探して自分を正し、同修が私に会いに来たのであれば、私が修煉する要素がそこにあるのです。私は「まず良い人になろうとするところから始め、ひたすら自分の心性を向上させ、ひたすら苦しみに耐え、ひたすら上へ向かって修煉し、ひたすら心性の向上を求めますが、自分の功は見えません」[1] という師父の説法を思い出しました。私はそのことがすぐにわかりました。
真相資料は人を救う最も重要な資料なので、どんなに難しく、どんなに苦しく、どんなにプレッシャーが大きくても、自分で克服しなければなりません。また、絶対に引くことはできず、私はすぐに真相資料の制作の引き継ぎに同意しました。さらにこの数年、地元の真相資料は運転手の同修が不当に判決を下されたため、資料の発送量が少なく、街で真相を伝える同修は多くの場合、真相資料を配れず、100万人近い人口の大きな県で、数百人の大法弟子が人を救う任務に直面していても、その任務はとても困難でした!
真相を知らせる卓上用カレンダーを制作し終えた後、私は二十数種類の明慧定期刊行物をすべてダウンロードした後、全部読み終え、真相資料を制作し始めました。最初の週に同修に渡す100部の資料を完成させ、再び十数種類の明慧定期刊行物を100部制作し、学法グループに持って行きました。学法グループの同修は何年も資料を配っておらず、ある同修の家には1部の資料も置いていませんでした。交流を通じて、同修たちは「100万人の衆生に相対し、私たち数百人の同修が、面と向かって真相を伝えるのはとても困難です。もし、まず先に真相資料を配ったならばとても容易になります。できるところから真相を伝えながら配った方がよく、半分の労力で2倍の効果を得られる」と認識の上で合意に達しました。
同修が真相資料を見た時「何年も配っていない、今の資料はとてもよくできている!」と言いました。私は「明慧ネットの同修たちの編集が素晴らしいからです」と言い、100部はみんな同修が持って行きました。第2週目、私は再び学法グループへ200部持って行き、余りはなく、最も多い時は3、400部でした。街で真相を伝える同修もだんだんと真相資料を持って行き、面と向かって配るようになりました。時には真相資料が足りず、救われることを急ぐ人々は先を争って資料を欲しがりました。同修はそのことについて「私たちはあなたが制作する資料を必要とし、見れば気持ちが落ち着き、人々は争うように欲しがります。ある人はもともと欲しがっていなかったのに、表紙を見ると、あまりの美しさに欲しがりました」と言いました。
またある学法グループでの交流後、同修が「あなたはまず1週間試しに50部送ってみてください」と言いました。私は10種類の明慧定期刊行物を集めて50部にして同修に送りました。第2週目、再び50部送り、1カ月後、同修は「100部送ってください!」と言いました。さらに1カ月が過ぎると、同修は「200部必要です」と言いました。こうして、部数は絶えず増えていきました。
周りの同修が向上し、人里離れた辺鄙な山の中の場所でも、師父は落とそうとは思っておられません。私が山の上にいる同修と連絡を取るように師父が按排され、ちょうど山の上の同修も資料を欲しがりました。1人の同修が車を運転し、私たちは同修を連れて制作した2000部の真相資料を山の上に運びました。交流を通じて、山の上の同修と山の下の同修は資料を皆残すようにし、さらに「これらの資料は、全地域に広げるには基本的に十分です」と言いました。
今年(訳注:2019年)、ちょうど私は定年退職し、学法グループに出す資料以外に、時間があまっていました。そこで、私はいつも昼間に資料を配りに出かけました。天気がいいと付近の村落に行って配り、雨が降るとアパートで配り、1人で数カ月続けました。私はちょうど50部の真相資料を入れられる小さな包みを持ち、出かける時は体に携帯し、随時随所で真相を伝え、資料を配ります。
続いて、農村に行って真相を伝え、資料を配るのはしっかり行なう同修が私と協力し、昼間同修がオートバイで私を連れて村落へ行き、真相を伝えながら資料を配ります。
ある時、私がちょうどある家の玄関に向かって「九死に一生を得る」という真相資料を置き終わった時、表紙にはオリンピックの有名な選手である黄曉敏さん(訳注:1988年オリンピック水泳銀メダリスト)が黄色い服を着ており、服の上に「法輪功」という字が印刷されていました。私がちょうど数メートル離れた時、1人の男性が資料を手に取り私に向かって、「私はこれを持って渡航手続きをしに行きますが、効果がありますか!」と叫ぶのが聞こえました。私は大声で「この真相資料をあなたがまじめに読んで、理解すれば、あなたに福報があるはずで、何を行なっても順調に行くでしょう!」と言いました。男性は「ありがとうございます!」と言いました。私に協力している同修も真相資料を取りに玄関先に出てきた男性に会い、さらにこの男性を「三退」させました。この時、村の人が聞きつけて、家の中から出て来て、隣人に「彼女たち2人は何をしているのですか?」と尋ねました。2人の男性の村民は同時に伝え、「彼女たち2人は法輪大法を配っています! 法輪大法です!」と言いました。
またある村落ではキリスト教信者のある農婦に、私は明慧定期刊行物「金の種」を渡すと、その農婦は「どういうことですか?」と言いました。私は農婦に真相の内容を簡単に紹介し、続いて、農婦に三退を勧めました。農婦は「私はキリスト教信者です」と言って、真相資料を私に返そうとして、ほしくないという感じでした。私は両手で押し返そうと試み、私が資料を押し返そうとしているのを見ると、農婦は資料を手元の方へ引っぱりました。私は「こんなにすばらしい資料を拒絶しないでください!」と言いました。農婦は「他の資料ももう1部ください」と言いました。私は「天から賜る幸福」も農婦に渡し、「一家に1冊ずつ、内容が異なり、お互いに回覧すればよく、あなたは2冊持っており特別です」と言いました。そして、農婦は実名で少年先鋒隊を脱退しました。
またある村落で、ある若者に会い、私は「少しよろしいですか『金の種』を差し上げます。今年の収穫が豊作になりますように!」と言いました。若者は「私は農民ではありません!」と言いました。私は「『罪悪と裁判』をご覧ください、真相がわかれば福報が得られます」と言いました。そして、私は「『金の種』を返してください」と言いました。若者は「私は両方読みます。家には家族が多いのです」と言いました。私が「人生の物語」を手に持っているのを見て、若者は「どうして、それを私に下さらないのですか?」と言いました。若者は手で「人生の物語」を横取りしました。続いて、私は若者の名前を聞き、若者は少年先鋒隊を脱退することに同意しました。そして、家族全員に資料を見せるように、私は若者に言い、若者の家族全員が救わることを希望しますと言うと、若者は「必ず家族に見せます」と言いました。
数回農村に行って資料を配り、真相を伝えることを通じて、師父は私たちのために道を開いてくださっていることを悟りました。師父は私たちが出かけて口を動かすのを待っていらっしゃり、衆生が救われることを待っておられるのです! 地元の同修が出て来ることが出来ないことに、師父は焦っていらっしゃいます! 地方の同修と協力し、それで、人と車がみな来るので、同修は私に資料を制作させ、どんなに忙しくても、私はいつも資料の品質を保証し、表紙は縁なしの写真をプリントし、整然とそろえて製本しました。農村向けの真相資料は十数種類で、さらにいつでも更新しており、師父の法を正す進展についていきます。
地方の同修と協力できる時間内で、時間が迫っていて任務が重く、三十数日で、1万部以上の真相資料を制作し、順調に仕上げます。これは私が行なうべきことでした。
この数年、私の手によって制作されたDVD、『共産党についての九つの論評』、真相資料は、同修たちの認可を得ており、同修はみな、私の「仕事」はすばらしい、と言いました。人々もみな「製本が素晴らしい!」と言いました。概して言えば、私がこの道を歩んで、大法を実証することを師父が選択され、私は心を込めてすべての真相資料を制作しなければならず、同修が食費を切り詰めて節約して持ってきた命を救うお金に申し訳が立つようにしなければならず、すべての資料が人を救う作用を発揮できることを希望しています。旧勢力は炎と血に満ちた邪悪をもって、大法が乗り越えられないようにするつもりでした。皆さんは確固たる信念、この世に降りたときの神聖なる誓約、生々世々の親縁、理性から大法に対する認識を頼りに、同時に、大法が皆さんに与えた正念と法力による根本的な保障を頼りに、乗り越えてきました!」、「皆さんは残りのことにしっかり取り組み、悔いのない修煉過程をもって未来へ向かってください。皆さんが悟りと成果を得られるよう祈っています!
最後に師父の説法を引用し、同修の皆さんと励まし合いたいと思います。「旧勢力は炎と血に満ちた邪悪をもって、大法が乗り越えられないようにするつもりでした。皆さんは確固たる信念、この世に降りたときの神聖なる誓約、生々世々の親縁、理性から大法に対する認識を頼りに、同時に大法が皆さんに与えた正念と法力による根本的な保障を頼りに、乗り越えてきました!」、「皆さんは残りのことにしっかり取り組み、悔いのない修煉過程をもって未来へ向かってください。皆さんが悟りと成果を得られるよう祈っています!」[4]
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「小説『蒼宇劫』について」
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
[4] 李洪志師父の経文:『カナダ法会へ』
(明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)