文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年1月21日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
20年来の修煉で、私は困難で紆余曲折の日々が多く、苦労を舐めて鍛え上げられながら今日(訳注:2019年11月)まで歩んで来ました。これまでに感じることがたくさんあり、振り返ってみると、すべてが師父のご加護と按排であったことを深く理解しています。師父の按排が最も良いものであったからこそ、今日まで歩んで来ることができ、師父の広大な佛恩に弟子はとても感謝しています!
一、情を放下し着実に修める
1999年に私は法輪大法の修煉を始めました。私は修煉の道で人の情を放下し、自分の修煉の過程を貫きました。
2003年、私は同修である母親と一緒に真相資料を配った時に人に通報され、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)と「610弁公室」の担当者に不当に連行されました。国内安全保衛部門と610弁公室の警官らは私たちの資料の出所を尋ねましたが、私も母親も協力しませんでした。そこで、国内安全保衛部門と610弁公室の警官らは資料の出所を言いさえすれば、私を解放すると言って私を誘惑し、罠にかけようとしました。その時、私の心の中には「私は大法弟子であり、絶対に同修を売ることはできない」という一念がありました。私は終始何事も、中国共産党に協力しませんでした。
国内安全保衛部門と610弁公室の警官らは私を留置場に不当に拘禁しました。その当時、私の娘はまだ2歳になっておらず、じっとしていると子供のことが気になり、その気持ちが潮のようにわいて来て、子供が泣き叫び、母親を求める声が聞こえてきそうでした。私は担当の警官に極めて真心を込めた手紙(その時はまだ真相を伝えることが出来ていなかったのですが)、私の苦しみを伝え、担当の警官が私を解放してくれるように希望しました。そして、担当の警官たちが私に尋ねに来た時に、手紙を担当の警官たちに渡しました。担当の警官たちは手紙を読んだ後、私に同情しました。37日後、担当の警官たちは突然私を解放しました。しかし、私の母親は不当に1年6カ月の労働教養を科されました。
解放された翌朝、警察署の警官が私に電話をかけてきて、私の母親は労働教養に科されなければならず、私と母親を会わせるので車が警察署の門の所で私を待っている、と言いました。私と夫はすぐに出発し、私たちが警察署まであと50メートルの所まで歩いて行った時、私は突然おなかが痛み出し、頭の中に「後で会っても同じではないのか?」という一念が突然生まれました。そこで私は行かないことにし、夫に警察に電話してもらいました。こうして、中国共産党に騙されないように師父が私を護ってくださいました。なぜなら後で知ったことですが、私も不当に労働教養に科されるところでした。さらに労働教養決定書はすでに労働教養所に届いており、労働教養所の人間はその時すでに、「どうしてあなたの娘はまだ来ないのだ?」と母親に尋ねていました。
私の家庭環境はこの時から大変革が起きました。当時は邪悪要素が非常に多く、人々が大法に対して理解していなかったため、社会、職場、親せきや友人、隣近所から非難され理解されず、さまざまな圧力が続々やってきて、見えないさまざまな巨大な圧力が、私たちの生活に大きな変化をもたらしました。特に私の夫は、大法が修煉者の心身の健康によい効き目があることを知っていました。しかし、夫はやはり圧力による打撃に耐えられず、人間性がだんだんと変わり、気をもむ性格になりました。
私は夫と10年の間、恋愛して結婚しました。私は農村から出て来た女子で、私の心の奥底全体には、非常に伝統的な観念をずっと持っていました。この人(訳注:夫)こそ私の大切な人だと思い、性格と各方面をまじめに観察しながら、すべて私の要求に符合したので婚約者として選定し、永遠に頼れる人だと信じ結婚しました。修煉前、私は骨と皮ばかりにやせこけており、体が弱くて病気にかかりやすく、その時、夫は生活の上で私に行き届いた配慮をし、私を助けてくれました。1999年修煉を始めた後、私は無病で体中が気持よくなり、家族はみな認めてくれ、当時夫はまだ私を理解し支持してくれました。しかし、今突然やって来た迫害と圧力に直面した夫は適応しきれず、特に夫の数人の兄弟(ほとんどが省と市の政府の役人)が夫に対してとがめ、腕は太ももにはかなわない(訳注:中国共産党にはかなわない)などと言い、加えて、現代主義の意識と行動と中国共産主義の促進と迫害の下で、夫は自己優位な人間に変わり、温情がなくなり、冷ややかに対応するようになり、何に対しても気に入らなくなりました。
私はその時学法の時間が長くなく、修煉の基礎はまだ固く築かれておらず、1999年修煉を始めた後、続けて結婚、妊娠出産、家の購入、リフォームと、さまざまな人心が取り除かれておらず、さらに旧勢力が矢も盾もたまらず、私を懲らしめようとしました。夫の変化、子供の足手まとい、環境の圧力、さらに残業しなければならず、私も生活に対して勇気がなくなり、自信をなくしました。幸運にも、師父が同修を按排してくださりすぐに私を助けてくださり、私を励ましてくださり、私は着実に修煉し、三つのことをしっかり行ない、ゆっくりと私は再び正常な修煉状態に回復しました。同時にまた師父が説かれた「現在の人間は情をとても重く見ていますが、情はもっとも頼りのないものです。優しくしてくれれば喜びますが、そうでなければ情はなくなります。これは頼れるものなのでしょうか?」[1]を私は理解しました。
2004年、地元の資料拠点の同修が不当に連行され、私は資料拠点の仕事を引き継ぎました。しかし同修が携帯電話の安全を怠ったため、その後、私は尾行され、不当に連行されました。私が不当に連行された時、空は暗くさらに郊外であったため、同修に迷惑がかかることを私は恐れ、警官に携帯電話が見つかることを恐れ(携帯電話の中には数人の同修の電話番号があった)、私は警官が注意をそらしているすきに、携帯電話を捨て、さらに、資料拠点の部屋の鍵およびプリンターを買った時の領収証などを捨てました。その後、警官が身体検査をしても何も見つかりませんでした。
師父のご加持の下、私はめまいを起こして地面に倒れ、警官たちは救急車を呼んで私を病院に運ぶことしか出来ませんでした。私は病院の治療に協力せず、自分の家族に来てもらうように私は要求しました。その後、家族もやって来ました。病院のベッド数は状況が厳しく、病院はベッドが一つしかない病室を私のために手配しましたが、私は断りました。病院内のほとんどがお年寄りであることを私が気にかけている、と夫が病院側に伝えました。こうして私はずっとロビーで横になり、臨時に押して動かせるベッドで横になることが出来ました。警官が行ったり来たりして苦しい思いをしました。私は薄目を開け、一日中飲まず食わずで、声も出しませんでした。私はトイレに一度行き、夫が私を背負っていき、私がかがみこむと、女性警官もトイレに来て見はり、「トイレからは逃げられないのではないですか? 向こうへ行ってください」と夫は女性警官を責めました。
私はずっと正念を発し、師父の写真を思い出したいと思い、急に師父が見え、師父は特殊な姿で現れ、師父の肩から上が重なりあい、慈愛深い師父がニコニコしながら私を見ていらっしゃるかのようでした。私は確信が高まり、師父が私を見守ってくださっていることがわかりました。
翌日の夜、私は拘置所に不当に拘禁されました。門を入ったところで、私にてんかんの病状が現れ(以前このような状態になったことはない)、拘置所側は受け入れを拒否し、私は再び病院に入れられました。その夜、携帯電話の安全を怠った同修および巻き込まれた同修5人が不当に連行されました。警官は私に気を配る余裕がなくなり、医者に私を見ておくように要求しました。深夜に医者が何度も診に来ました。翌朝、私は「私に病気はなく、ここは私がいる場所ではなく、私は急いで出て行かなければならない」と悟りました。私は夫に背負ってもらい病室を出て、医療スタッフがいるところでは背負い、人がいないところは私を下ろして急いで走り、すぐに病院を出て、外に停めてあった夫の車に乗り込みました。しかし私の夫はためらい、私は「どうしてすぐに車を動かそうとしないのですか?」と言いました。夫は「どこへ行くんだ?」と聞きました。私は「家に帰ります」と言い、夫は動かず、夫には不安と圧力があるのだとわかりました。私は「それなら実家に帰ります」と言うしかありませんでした。こうして私は実家に帰りました。しばらくして、警官もすぐに私の実家にやって来て、私はすぐにベッドで眠り、この時、師父が再び奇跡的に私に病業の虚像を出現させ、てんかんの症状が現れ、警官たちは私のこの状況を見て、この時も私を困らせることはありませんでした。その後、警官たちは半年間私の住居を監視しました。
その間、7、8人が長期にわたって私を尾行して監視し、隣人も「いつも話をする時は注意しなければいけませんよ」と私に伝えてくれました。警官たちはさらにスパイを放ちました。私の夫は隣人や職場の親せきや友人の非難と誤解が作り出す圧力に対して、毎晩帰ってこなくなり、朝帰ってきた後も売り言葉に買い言葉でした。地元の「610弁公室」、職場、地域の人たちがしょっちゅうドアをノックしに来て、私と話をしました。子供も時々病業の状態が現れてベッドの上で泣き、私は一晩中子供を抱きながらソファーに座っているしかなく、その後17日間物を食べず、いつも妨害が絶えませんでした。私の恐れる心も日に日に重くなり、虚栄心とメンツも放下できず、多くの場合正々堂々と物事に直面したがらず、暗雲が垂れ込めているかのように感じました。その時は全体から離れてしまい、正念もだんだん弱まり、経文を読んでも心に入りませんでした。その後夫が戻って来ると聞き、夫の上司が一般には公開しない情報を手に入れ、メーデーの連休後に私を洗脳班に連れて行き、もし「転向」しなければ直接労働教養を科する、ということでした。
自分が当時すでに中国共産党に相対するために十分な正念を持っていないことを私は知っており「家に蝿や蚊が入ったら、それを追い払うか、網戸を付けて入らせないようにします」[2]という師父の法を思い出しました。私は夫に「邪悪が来たら、私たちは協力しません。いいですか?」と聞きました。夫は「私は中国共産党に協力することしかできない。そうでなければ、私の仕事がなくなってしまう」と言いました。夜、師父は私に夢を一つ見せてくださいました。私が住んでいる実家は四合院(訳注:中央に庭を囲んで作られている家)で、すべての扉に毛沢東がかかっており、わきの小さい扉にだけはかかっておらず、さらに夫が座っているベンチの上にも「党」の字が書かれていました。邪悪がすでに私の空間場に満ちていることが、私にはわかりました。もし私が中国共産党に連れて行かれたら、正念が不足しているので、その結果は悪い結末となるでしょう。
私はただしっかりと修煉したいと思いました。この私にはただ家を離れて出て行くことを選択できるだけでした。しかし子供は私の手で育てられ、まだ3歳を過ぎたばかりで、当時はまだ中国共産党の迫害の圧力が強い時で、ここで出て行ったらいつ戻ってこられるでしょうか? 子供はどうすればいいでしょうか? 夫はどうなるでしょうか? 私の仕事はどうなるでしょうか? 私はどこへ行けばいいのでしょうか? 私は自分の気持ちを整理し、その晩、涙を流しながら夫に手紙を書き、さらに子供の面倒を引き継ぎました。私はまた夫と姑に「私の運命には一難があり、もし刑務所に入ったなら、同じように皆つらくなり、それならば一時的に、まず少しの間離れた方がいいと思います」と手紙で直接伝えました。こうして、私はどうしようもなく苦しい選択を行ないました。私が家を離れて3日目のその年に、私の住居を監視していた警官が、私に不当に1年6カ月の労働教養に科するという労働教養書(訳注:労働教養の実施を決定した書類)を私の夫の元に送ってきました。
家を離れた後、「私にはどうしていつも問題が起こるのだろうか?」と深刻に反省し始めました。明慧ネットの同修たちの正念はあんなに強いのに、私はどうなのでしょうか? 自分がきちんと修煉できず、さらに家族に苦しみを受けさせ、平穏な日々を送れず、本当に恐縮でした。大法は偉大で、師父は偉大で、自分を守ることができる能力を必ず修煉して、身につけなければならないと私は固く決心しました。
その晩、私は夢の中で師父にお会いし、私は子供で、師父は私を抱いていらっしゃり、私は師父の足の上に座り、頭をあげて師父を仰ぎ見ていました。師父の顔全体がこんなにもおきれいで、皮膚がこんなにもきめが細かいのを見ましたが、目じりのところに、小じわが2本かすかに表れており、それが私のために残ってしまったしわであることを、私は夢の中で意念が知り、そこで夢が覚めました。師父はずっと私を見守ってくださり、また私を励ましてくださり、私の選択が正しかったことを、その時に私は悟りました。師父は「弟子の皆さんの苦痛はわたしにはすべて分かっています。実は、皆さん自身よりもわたしは皆さんのことを大切にしているのです!」[3]と説かれました。住居を追われている間、私は病業があり、それをまだ暴露していない同修の家に行き、毎日その同修と一緒に学法し、煉功し、外には出ませんでした。14日後、私はある夢を見て、私はアワをかつぎ「もし、わきの筋を歩んで1人しか救うことが出来ないのなら、大道を歩むことだけが正しいのだ」ということを意念の中で知りました。師父は別の按排をされたかもしれず、私には別の使命があることを、私は悟りました。そこで私は同修に別れを告げ、他の同修の家に行きました。もうすぐで同修の家に着く時に、警官3人が同修の家から出てくるのに出くわしました。警官と面と向かっても私に恐れはなく、すぐにしゃがんで自分の靴ひもを結びました。警官は私に気づかずに、何もなくて済みました。
その後、私は転々としてある資料拠点の同修の家に行きました。同修はとても忙しく、資料を作る以外に、さらに処理しなければならない多くの常人の仕事があり、私は製本と裁断を手伝いました。当時、大きな資料拠点は破壊され、資料は幾分供給が需要に応じきれておらず、その時同修の仕事をする心は強く、日常の業務はさらに忙しかったのです。私は卑屈になって同修に技術を尋ねようとせず、私が争って行なおうとすると同修が思うのを恐れ、実際私には資料を作成するための十分な時間と精力がありました。
ある日、同修が家を遠く離れ、私は資料を作りたくなりましたが、私はパソコンに触ったことがなく、同修のパソコンは休眠状態にあり(プリンターもちゃんとつながっていた)、私がマウスを揺り動かすと、画面が明るくなり、どこをいじったのかわかりませんが、パソコンは真っ暗になってしまいました。にわかに私は頭痛がし、全身が冷えてきて、足は氷水を踏んでいるかのようで、当時は冬でした。私の体はこのような感覚を受けましたが、心は落ち着いており、ある種の意思によって、私は引き続きいろいろと試してみました。
最初はマウスがうまく使えず、マウスが思うように動かず、しかしすぐにマウスを使えるようになり、一枚もののプリントを試し始め、表紙と裏面もみな順調にプリントされ、なんとも簡単で、師父は私の知恵を開いてくださり、キーを押すのもみな正確でした。私も肝心な段階を少し覚え、WORD文章とPDF版の文章のプリントをマスターし、『共産党についての九つの論評』と大法の経文のやり方をマスターし、ページ数の多い資料とパンフレットのやり方をマスターしました。私はやみくもに繰り返し、夜中の3時まで続けました。
翌日、同修が帰って来ると、「師父が私を加持してくださり、私は一晩ですべての資料のやり方をマスターしました」と同修に伝えました。同修はまるで信じようとせず、しきりに「奇跡だ」と言いました。その後、同修は地方に公務のための出張に行かなければならず、私は一人で資料のプリントを請け負おうと決心し、同修は消耗材を運び込むことだけを私に任せました。
師父のお導きの下で、私は法を暗記し始め、1段落ずつ暗記し、暗記した字は忘れたりせず、さらに6編暗記しました。3時間以上暗記し、多くの法理を悟り、2回目の暗記で「わたしが法を伝える時間はそろそろ終わりに近いと思いますので、皆さんがこれからさらに修煉されるにあたって、手引きとなる法を持つことができるように、本当のものを皆さんのために残したいと思います」[2]という法を暗記しました。私は感情を抑えきれず声をあげずに大泣きし、師父の広大な佛恩を感じ、人を救うこの大法の博大な奥深さを感じ、私が以前理解したあのような底の浅いものとはまったく違いました。
さらに私はむさぼるように毎日更新される明慧文章を読み、さまざまな種類の真相資料を見て、私の体に質の変化が起き、「真の修煉者というのが私たちの身分であり、師が法を正すことのお手伝いをするという断ることのできない責任と使命があり、すべての生命はこのために存在しているのだ。宇宙の中にこのような大きな天機が含まれているのだ」ということがすでに明確にわかりました。
責任と使命があるので、明慧ネットには大量の資料の情報源があり、私はまじめに資料を選ばなければならず、地元の衆生に合うように資料を選ばなければなりません。ある時、私は特色のある文章の内容を投稿することが出来るようになり、いつどの期刊あるいはどの資料から出してくるのか、その時になると心当たりが思い浮かびました。異なる内容はさらに異なる職業の迷いを破るのに適しているので、その後私にはまた、真相が書かれた手紙を送るプロジェクトが増えました。
私が路頭に迷った後、私のすべての親戚の電話は監視され、私の実家は長期にわたって誰かが監視し、その時には、資料拠点の窓はすべて閉められていました。一定期間の修煉を通じて、住居を追われたことは師父が按排された道ではないことを私は認識しました。しかし私の心には、ある種のわずかな悲しみがあり、家に帰る日はいつになるかわかりませんでした。
ある日、私はカーテンを開けて隙間から外を見ると、ちょうど夫の車が見え、車には1人の女性が座っており、一目見て普通の関係ではないことがわかりました。どうしてこんなことになるのでしょうか? どうりで夫は離婚したいと言ってきたはずでした。私の体はすべての関節からみな力が抜け、すべての骨はみな腰を抜かし、私は打ちのめされ、感覚を失いました。
2時間以上が過ぎた後、私は息を吹き返しました。この時「子が親不孝をすれば、やがては立場が逆転されます。このように、業はぐるぐるめぐります」[2]という師父の法が私の脳裏に入って来ました。私は「なんという因縁関係なのか、人々はみな旧勢力の脚本通りに歩んでおり、私の意志はつぶれるわけにはいかず、私の生命の目的と意義は常人とはすでに完全に異なっており、私が歩んでいるのは師父が按排してくださった師が法を正すことのお手伝いをする道であり、私は誰であるか、私は大法弟子であり、夫の行為は虚像である」ということがわかりました。
法に則って適切に処理し、私は努力して自制し、夫婦の情を放下し、自らを卑下する心理を放下し、不平不満な嫉妬心や闘争心、自尊心などを放下しました。だんだんと私は正念を回復し、心の中で「私に漏れがあるというのであれば、私は大法の中で修煉して向上し、それは旧勢力であるあなたと何の関係もありません」と旧勢力に伝えました。私は夫とは離婚せず、これも私の選択であり、自分で決めました。大法弟子は師父が法を正すことをお手伝し、また自分の乾坤も正さなければなりません。
その後夫の態度がどうであろうと、私はいつも心を動かさず、夫は世の中で迷っており、とても残念に思いました。すべてはただ大法を中心として圓容することが出来るだけなのだと、私は信じています。現在(訳注:2019年)夫の私に対する態度と大法に対する支持も、その態度はだんだんに良くなっています。
時間がまたたく間に過ぎ、あれから2年が過ぎ去って、私は6回以上『轉法輪』を暗記し、基礎を打ち立てました。私は「法を正す形成の変化に従って、資料拠点を津々浦々まで広めるべきであり、面と向かって真相を伝え、三退を勧めることはこれまでの法を正す形式であり、私は出て行って、師父が法を正す進展に追いつかなければならず、そうしてはじめて私に対する旧勢力の按排を否定することができるのだ」と悟りました。私の考えを母親や家族の同修に伝えた後、母親と家族は「現在はまだ形勢がよくなく、数日前にあなたの職場から通知が来ました。通知は玄関に差し込んであり、それには10日以内に職場に戻って報告するように書いてあり、そうでなければ仕事を取り除くということです。また最近、全国各地でオリンピックが開かれる前に、多くの人が不当に連行されています。あなたはどこにいても三つのことをしっかり行ない、室内で資料を作り、それも確かにあなたが行なうことです。こちらよりも、その方が安全でもあり、あなたは他の場所に行ってもこのような環境が見つかるのですか?」という違う考えを唱えました。
多方面に気にかけられているために、それもまた道理があると私は聞いていましたが、内心ではやはり自分の考えを抑えることが出来ず、多くの葛藤がありました。夜夢を見て「自分が密室にいて、壁は浅い真鍮色(しんちゅういろ)で、厚い壁で、私は籐の椅子に座り、上に向かって飛び、高いところまで飛び、こぶしで壁を叩き、穴が開いた」という夢を見ました。
しかしその時、私は悟りませんでした。その時に外に出て法を実証したいととても思いましたが、心配が重なっていました。ある時、私は2、3ページプリントしながら考え、突然プリンターに1ページの紙が挟まり、その時はパンフレットの裏面をプリントしており、そのまま引き続き2、3ページプリントし、プリントされたこの2、3ページは一致していないのではないだろうか、と思いました。私はすぐにまずプリンターを止めましたが、不思議なことが起き、私がどんなに調べても、なんと文字化けはなく、挟まって出てきたのは片面プリント用の紙であり、また重複した1枚もののプリントでした。こうなるはずがないのではないでしょうか? 師父は私を導いてくださっているのではないか、と思いましたが「このような心配は考えすぎで、特に困らないでしょう」とも思いました。
私は師父の二度のお導きを同修に伝えると、同修は私を連れて1週間に2回外に出たがり、朝出かけて真相を伝えるか、いくらかの資料を配り、メールを送り、一日中忙しくして夕食時に帰って来るというものでした。その他の時間は家で法を暗記し、資料を作り、効果がとてもよかったのです。
1年後のある晩、私は特殊な夢を見ました。「数十人の警官らがスーパーの前の空き地に座っており、前の道を私が通り過ぎるのを見ており、警官らは私にかまわず、私は体に背負っていた黒い本皮のかばんのベルトが突然切れ、どうしても繋げられない」という夢を見ました。何かのことについて重要であるためという可能性もありましたが、私は悟れませんでした。魔難の中にあるため、師父は慈悲深く夢という形で私を悟らせてくださり、正しく歩ませ、私を押して前へ歩ませてくださっていますが、私は夢にはまったく執着しませんでした。
しばらくして、真相を伝えているうちに私は警官の娘に真相を伝え、警官の娘は私たちを通報し、私と同修は警官に不当に連行されました。師父のご加持の下で私の気持ちは落ち着いており、私が行なっていることは宇宙の中で最も正しいことであり、宇宙の中で承認を得ており、誰も私を迫害することは出来ません。拘置所で、私は同じ監房のすべての人にみな三退を勧めました。警官は「お前が逃げるので、四方八方でお前を探しに北京にまで探しに行ったが、ずっとお前が見つからず、今回捕まえたので厳しい実刑判決を下さなければならない」と言いました。私は警官の言うことを信じず、師父がすべてを決めてくださいます。警官が審問に来た時、私の体に再び重い病業の虚像が現れ、重いカリウム欠乏症で、重い心臓病の類も現れ、いつでも生命の危険がありました。警官はどうしようもなく、きちんと解放するしかなく、私の家族が保証書にサインし、再び問題が起きたら罰金は合計で4万元(およそ64万円)ということでした。こうして、3日後に私は家に帰り、住居を追われた生活は終わりました。
注:
[1]李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
[2]李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3]李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
(続く)